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スレッドNo.4940

評、12/6~12/9、ご投稿分。  島 秀生

地元詩人会の役員をするについては、MY DEARのみんなには、絶対迷惑をかけんようにと誓ってやっているのだけど、いかんせん今年はちょっとMY DEAR本誌の更新が遅れたり、掲示板の評も遅れたりと、迷惑をかけてしまい、すみませんでした。わたし自身ちょっと不本意な年でした。、
来年は迷惑かけんように、したいと思います。

インフルが流行ってますから、お気を付けて、年末を楽しんで下さい。
メリークリスマス!! 



●白猫の夜さん「星の焦がれ」

あのね、
屋根に登って、星に話しかけるというセッティング自体は、別段珍しいものではないですし、話の内容もまあまあフツウなんですよ。
でも、星の語らせ方がすごく表情があっていい。これが独特。感性なのかしら???
また、星と自分との関係性を突き詰めていく感じに、話が一本、筋が通っている。ストーリーの芯がある。
また、屋根から降りて、の終連の雨の描写もいい。

まあストーリーの芯の話はあるけれど、この詩の良さは主にディティールの描き方の魅力ですね。文体自体の感性豊かさと言っていいでしょう。それが魅力的です。
秀作あげましょう。

今後もセリフ調の箇所を挟んだものを書かれるといいと思います。


●津田古星さん「ねえたらくわず」  

おもしろいね。
「ねえたらくわず」の、まず方言の意味。
次に、決断と行動の美学の地域性。
言うならば、遠州人が一般的に相対する時に適用する、理念の話から入っておきながら、
話はだんだん具体例に降りてくる。
私の出会った人①の話と、私の出会った人②の話となる。
なんの具体例かと思いきや、これは結婚対象となった人の話。
②の人と、見事ゴールインとなる。

私は②の人が出てきたあたりで気づいたけど、なかなかのどんでん返しでした。
理念の説明の硬い話から、よもや最後、ここに来るとは。

また理念の解説もしっかり書けていたし(「気づいた自分を喜べばいい」の考えには、ちょっと感動した)、①、②の人物それぞれとの心理戦に深く入ってるとこも良かった。
ただ紋切り型に対応するのでなく、これは甘えと読んで、背中を押すようなやさしさもあったので、なお良かった。

よく書けてましたし、構成も良かった。秀作プラスあげましょう。


●上田一眞さん「ゆっくりおやすみ」  

子供の時に、さんざん軋轢があり、悩みの種だった継母さんですね。
6連の、

修羅の道を歩んだわれらだけど
もう 悪態はつかないし
もう どこへも行かないから
安心して

は、その時のことを言っているのでしょう。
今は和解ができてるんですね。継母の側にしても、高齢になってから頼れるのは、結局、作者しかいなかったのでしょう。

親を見離す子も多い中で、喧嘩別れした相手であろう継母の面倒を見てるのはエライです。
意外にも、クラシックに趣味がある継母さんなんだろうか。それともこの2曲にかぎり好きなのか、わかりませんが、全くふつうに認知症の親の面倒を見てる感じで、今はなんのわだかまりもなくなっているようです。至れり尽くせりの心からの呼びかけをしています。

認知症の人に限らず、「テキトーに忘れる」のが人間で、だからツライこともだんだん和らいでくれます。人間は、忘れられるから生きられるんだという説すらあります。
認知症の悪化した状態は、死の恐怖やこの世の辛苦から解放するため、というのも一理ありますね。幸せに逝くための準備なんでしょうね。

後ろから2連目。継母にとっての「懐かしい故郷」は、先に書かれた詩によると、戦前の釜山(いわゆる「外地」の時代)の町なんですね。


一個だけ引っ掛かるのは、4連後半、

そのときは ぼくが
手をとって
黄泉の路を明るい光で照らすから

で、
これはしかし、お父さんなり、先人に任せるべきことでしょう。

作者にできるのは(生きてる人ができるのは)黄泉へ向かう道の入口までかと思います。

うーーん、これは上田さんの人生を辿るシリーズ、とりわけ実母が亡くなられたあたりからずっと続くシリーズの中で読むと、この詩の位置づけがわかり、この詩の良さがぐっと増すことと思います。
反面、この詩だけを読むと、過去の反目の歴史がわからないので、ふつうに親孝行な子の介護の詩としか読めないかもしれないです。単独でこの詩だけ読んだ時に、6連だけでは意味がわからないだろうと思われ、その不利があります。
単独でもざくっと関係性がわかるように、もう一連くらい書いた方がベターです。

確執が浄化された、すばらしい心の境地が書かれた詩であるのですが、その意味で、少しおまけの名作とします。


●秋さやかさん「柘榴」  

序盤の柘榴の描写がまず見事ですね。
柘榴は、夕焼けを吸って満ちていくんですね。だから、あの赤なんだ。
また柘榴の果肉は、自身の脈とも共鳴しあうという。
詩は、小学校低学年の時に抑えていた衝動があふれ出したのも、この果肉を口にした時だったと思い出します。
たぶん親に言われて小学校低学年から個人塾に通っていたのでしょう。学校の友達と遊びたい盛り。それを抑えて通っていた。
「遊びたい」と訴えたいけれど、小学校低学年であれば、親の言いつけにNOと言うこともできず、ただただ、暗い声でただいまと言っていた。けれど、本当はその言葉の中にある影に気づいてほしかった。
そういう内容の詩かと思います。
小さい子供ゆえに、親にはっきり言えないつらさを抱え募らせてゆく、そういう哀しさ、もどかしさを感じる詩でした。

また、柘榴の一粒を盗み食い(きっと誰も叱らないと思うけど)して罪悪感に襲われるところ、その一粒を飲んでしまうところ、抑えていた感情が溢れて走り出すところなど、読んでて没入する詩行の連続でしたし、柘榴を描きつつ、柘榴を介した自身の情感の描写がステキでした。名作を。

一点気になったのが、

さっきまで
無邪気に駆け回るためだった靴を履き
逃げるようにその家を後にした

の連で、
靴の描き方がギクシャクのと、ここがちょっとはっきりしないせいで、私は初見で、これ、脱走して走ってる(遊びに行った)のかな? どっちかな? と迷うところがありました。

で、案ですが、
その前の連の「チャイムの音」を受けて、

耳を塞ぐようにしてその家を出た
無邪気に駆け回るはずだった靴を履き
逃げるように駆けた


こんな案はどうでしょう?
そこだけ一考してもらったら、代表作入りでいいと思う。


あと、ラストの4連、
今のままでもよいけれど、並びを変える手もあります

その日から幾度
ただいま、と言っただろう

渇望を押し殺した
その声の翳りに

母が早く気づいてくれることを
ただ願った

腑の底で
あの柘榴の種が発芽して
血のような花が開いてしまう
前に


まあ、これはどちらでも。いちおう提示。


●佐々木礫さん「空転するパレード」 

部分、部分の比喩は悪くないですよ。おもしろいです。
ただ全体を見た時にどうにも不明なのは、終連で王子様を出したことですね。
4連で作者は十畳のリビングの安楽椅子に座っています。
ところが終連でバルコニーの電気椅子に座る王子様が出てきます。まずもってこの両者の関係がわからない。場所も別々ですからね。もう一人、別のキャラクターが、ここで登場してきたとしか読めない。また、ここで王子様が出てきてしまったものだから、5行目の「視線の先」も、王子様の視線の先ということになってしまうし、それ以降も王子様が見ているものということになってしまう。

言いたいのは、王子様は不要だったのではないか、ということ。
「作者」の視線のまま、「作者」が主語のままで、終連後半を見れば良かったのではないか、ということ。終連の2~4行目は削除した方がいいと私は感じます。

あと、3連の「砂漠の処刑場」もちょっと違うんじゃないかと感じる。
3連というのは、祝い事や「喜ばしい一日の終わり」を描いてる連だと思う。そうした内容のもので固められてしかるべきで、「砂漠の処刑場」だけが、連の趣旨に合わないものを置いていると感じる。

なんといいますか、言葉としておもしろいものを溜めておくのは良い事だと思うけれど、それは部分のものであるので、
詩には全体のストーリーがあり、そちらが優先であるから、ストーリーの場面、場面に合ったものを選んで持ってくることが肝要です。そのへんをもうちょっと意識してみて下さい。
言葉のセンス自体は悪くなかったです。

秀作一歩前としましょう。

編集・削除(編集済: 2024年12月24日 06:03)

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