あの人のように 佐々木礫
十三歳。
あなたの声は、空に浮かぶ風船のように、軽やかで儚かった。
「大好き」
僕より二つ上の彼女は、きゃあきゃあ騒いで、
ウサギのように跳ね回り、
「可愛いね、ほんと可愛い」としきりに言った。
僕は少しだけ愛されていた。
卒業と共に彼女は去った。
あなたの瞳に、僕が映っていたこと。
それが誇らしくて、恥ずかしかった。
僕は、あなたのように人を愛したい。
その頃、僕には好きな人がいた。
「何読んでるの?」
彼女は、窓際で本を読む僕に、そう話しかける。
「学級文庫」
「面白い?」
「別に、普通」
君は一瞬だけ眉をひそめて、「そう」と呟くと、そっけなく歩き去った。
その背中に揺れる長い黒髪のツインテール。
似合っていないと伝えたかった。
ある日、廊下で掲示板を見ている僕に、
彼女は「ねぇ」と呼びかけた。
そして、「あのね」と耳元で囁く。
「××ちゃんが、君のこと好きなんだって。
それで、付き合って欲しいって」
僕はその場にへたり込んだ。
「伝えたからね」と言って、彼女は去った。
××ちゃんとは、うまく行かなかった。
僕は理由を言わずに別れを告げて、
××ちゃんを遠巻きにして胡麻化した。
十四歳。
ツインテールの彼女とも、××ちゃんとも別のクラスで、特に何もない平和な日々が過ぎた。
昼の学校、夕方の部活、夜のスポーツクラブ。
僕は本も読まなくなった。
それでも心の奥には、来年のクラス替えに期待する自分がいた。
十五歳。
ツインテールだった彼女はショートカットに変わり、僕らは同じクラスになった。その変化は、僕の自意識よりも鮮明に、彼女がどこか新しい段階に移ったように感じさせた。その後、同じアニメを好きだと分かり、僕と彼女の距離は縮んだ。
秋ごろ、二人きりの廊下で、僕は、
「好きです」と彼女に言った。
「考えさせて」と彼女は言った。
それから、彼女は返事をくれなかった。
ある日、彼女は教室で、
「どうするの」と言う友達に、
「なんかもう、面倒くさい」と口走った。彼女は、教室の入り口前に、僕がいると知らなかった。
僕は行く当てもなく図書室へ行った。
本を手に取り読み始めたが、すぐ面倒になって止めた。僕は二度と彼女に話し掛けず、時々何事もなかったのかのように話し掛けてくる彼女に応じるだけだった。
冬、部活動の送別会の後、一つ下の後輩が、僕にお菓子と手紙をくれた。その手紙は恋文だった。想いのつづられた最後には「また部活に来てください」と書いてあった。
人間関係のいざこざがあり、僕は引退したら二度と部活に行かないと決めていた。渡す機会もない手紙の返事を書くこともなく、ただ無言のまま卒業までの日々は過ぎた。
今になって、涙が出る。
君に会いたくない訳ではなかった。
僕は、君のように奥ゆかしくありたい。
十六歳。
高校で、春から夏まで勉強に打ち込んだ。
大学進学、その先の将来のことも考えていた。
しかし、それから、またどうでもよくなった。
そして、学校を辞めようかと考え始めた頃、
クラスメイトの女子の一人が、僕に視線を送っていることに気が付いた。
不安定な均衡が始まった。
僕は高揚と恐怖を覚えた。すっかり白々しい心で、様変わりする一貫性のない心象を往復した。相手を見透かしてほくそ笑んでは、自分がなんて浅ましい男なのかと震えた。
十七歳。
僕は夏になる前に、学校を辞めることを教師に伝えた。両親は僕の自己責任を尊重した。
クラスメイトには伝えていなかったが、終業式の日に、僕は彼女に呼び出された。夕方、四階の端の空き教室で、彼女は僕に告白をした。
僕はへらりと笑って、
「ごめん」と言った。
なぜ笑ったのか、なぜ謝ったのか、自分でも分からなかった。笑う必要はない、謝る必要もない。なぜ、せめてもう一言「ありがとう」と言えなかったのか。
それから僕は学校の人たちと連絡を絶ち、二度と会わない人間を増やした。
今思えば、僕はあの時、
孤独から抜け出るための、最後の機会を逃したのだ。
僕は、あの子のように、勇気のある人間になりたい。 もっと素直な人間に、人から逃げない人間に、 過去を受け入れる人間に、なりたい。
十八歳。
何も言わず、初めて女と手を繋いだ日に思った。
(君は僕から何を奪うの?)
「幸せ」と、彼女は言った。僕は幸せだろうか。
「緊張するね」と、照れて笑う君に心が冷えた。
「ねぇ、こっち見て」これ以上、僕を見ないで。
僕は彼女と何度か夜を明かした。寂しげに、「待ってるから」と言った彼女に、僕は決して手を出さなかった。まるで呪いだと思った。
そして最後はすぐに来た。
「もう限界。別れよ」
と、彼女からLINEが来た。僕は怒りが湧いてきた。そして真夜中のぼやけた頭で、一気に文字を打ち込んだ。
「僕はあなたが嫌いです。他人に甘えた態度が気に入りません。君がそうやって生きるのはある種の美徳 かもしれません。でも僕は君の責任なんて負いたくありません。僕のぎこちない態度は君を傷つけたと思います。すみませんでした。」
こんなことしか言えない人間になる前に、僕は他人を愛するべきだった。もっと踏み込むべきだった。人に愛される幸福も、誰かを愛する勇気の女神も、充血した目で睨む僕を見て、すっと目をそらした。