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スレッドNo.4983

重明は毎夜、夢を見る  佐々木礫

 その日、俺は年老いて耄碌していた。
 夕方、中学校の廊下を歩く浮浪者。いつかの秋、この目の水晶体の真ん中で君が炸裂した教室に、別れを伝えに訪れた。辿り着いた教室には、机も椅子も、何も無かった。夕焼けと埃の結晶が静かに舞っている。
 「いない。シにたい」
 そう言って、目を閉じた。黴びた教室の臭いがする。カンカンカン、と段々と近づく足音がして、目を開けた。白と水色のセーラー服の生徒が一人、ひらり、と風のように俺の横をすり抜けた。彼女の手には、懐中時計が握られていた。俺が祖父に貰った懐中時計を、彼女が「きれい」と言うから渡したものだ。
 「も少し生きて、走馬灯にでも浸ろうか」
 と、俺は言った。

 その日、俺は病人だった。
 快晴。緑の生える川沿いの道、君とふたり、ゆっくり歩く。
 君はふと立ち止まり、道脇の草の前にしゃがんだ。
 「ノダイオウ、ヤハズエンドウ」
 少し右を見て、
 「スズメノエンドウ、ムラサキツメクサ」
 立ち上がり、三歩歩いて、
 「ナガミヒナケシ」
 と指さした。
 俺は割り込んで、
 「セイヨウタンポポ」
 と、言った。とたんに、発作の咳でむせ返り、息ができなくなった。
 彼女は、うずくまる俺の背に触れて、
 「はい息吸って。大丈夫だよ」
 と、言った。
 あの頃の、天使のような軽い口調。彼女の顔は太陽の白い逆光に遮られ、表情が見えなかった。しかし、肩ほどの黒髪は艶やかで、可憐に揺れていた。
 ㇵーー、ㇵーー、ㇵーー。
 と、俺は必死に息を吸う。

 その日、俺は若者だった。
 母校でも何でもない中学校の、校門の前で立ち止まる。くすんだ蛍光灯に照らされて、灰色の校舎は、不気味に緑がかって見えた。夜の校庭の花壇の花は、太陽の下の明々とした咲き姿よりも、遥かに愛すべきものに思えた。
 ふと、
 「眠っているものはみな美しい」
 と思った。
 その時、視界がオレンジ色に染まった。
 時計の音がうるさく響く。秒針の音が、カチカチカチカチ、サイレンのように耳元で鳴る。
 西の山から、巨人のような太陽が、慟哭を上げながら徐々に這い昇り、
 雑木林のカラスたちは、一羽、また一羽と、糸で引かれたように舞い上がる。
 目を見開いて、俺はその景色に立ち尽くした。
 巨人の慟哭、カラスの鳴き声、小さな時計の針の音、それらは気づくと止んでいた。わずかに耳鳴りの残る頭で、俺は自分がいる場所を理解した。
 夕方の教室、君は隣の席にいた。俺が横目で見た君は、疲れ目を閉じて昼寝をしていた。姦しくなく、人目を気にせず、見る者に確かな孤独を想起させる。例えるならフェルメールの、寂寞の色、小さな涙の耳飾り、それを着けて目を閉じている、無表情な少女のイマージュ。
「あ」
 俺はいつの間にか、廊下にいた。使い終わった教材を、彼女と二人で、空き教室に運んで来たのだ。俺は彼女を探そうとしたが、
 「しーげあき」
 と後ろから声がした。しーげあき、綺麗でも何でもない音が、そのまま滑稽に校舎に響いた。振り向かずに、「なんだよ」と俺は言った。「呼んでみただけだよ」と彼女は言った。そこから、二人で並んで教室へ帰った。
 少し離れて歩く彼女は、両手を後ろで組んでいた。彼女の細かな表情は、窓辺から差し込む強烈な西日に紛れて見えなかった。しかし、楽しそうに、歩いていた。なんでそんなに楽しそうなのか、俺には全然分からなかった。俺はただもう、苦しかった。
 
 卒業の日に、俺は彼女と会わなかった。俺はてっきり、彼女が颯爽と現れて、「写真を撮ろう」と言ってくるものだと思っていた。しかし、彼女は来なかった。俺も彼女を探さなかった。それからずっと、彼女は多年草のように、俺の脳裏に繁茂する。嫌だな、と思いながら、俺は毎晩、夢を見るために眠っている。

編集・削除(編集済: 2025年01月04日 18:07)

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