MENU
1,018,123

スレッドNo.5002

たまくす  三浦志郎 1/10

一 「ハイネ」

いわゆる黒船来航(嘉永六年 一八五三年)によって幕末が始まる

マシュー・ペリー提督率いるアメリカ東インド艦隊に
なぜかドイツ人が加わっている
ペーター・ベルンハルト・ヴィルヘルム・ハイネ
名前が煩雑
彼の経歴も煩雑なのでここでは触れない
ともかく ドイツ人ハイネ
ペリー提督に随行の画家であり著述家
日本遠征の報告者でもある

ペリー 一行が上陸した土地
久里浜 横浜 箱館(現・函館)下田 琉球で
ヴィルヘルム・ハイネは実に多くの風景画を描いた
写実的 と言っていい
日米交渉場面から親善風景 村落の佇まい 庶民の生活・風俗まで

現代に生きる我々が当時の自国を知るのに
少なからず 
外国人の手を借りねばならないとはどうしたことであろう
多くの学者・研究者は彼・ハイネに感謝するべきであろう



二 「ペリー横浜上陸の図」

翌 嘉永七年(一八五四年) 三月 ペリー再来航
日米和親条約締結
ここは両国約束の地 神奈川・横浜村

ここでも彼ハイネは絵を描いた
沖には艦隊が浮かび
米水兵警備の中
軍楽隊も加わり
まさにペリーが一団を率いて
上陸した直後である
まさに交渉所に入る直前である
出迎える日本武士の高官たち
離れて見物する下級武士たち
ご丁寧に路上 野良犬まで二匹描かれている

歴史的資料価値は極めて高い
歴史上の人物もさることながら
私が注目するのは絵画右側上方
一本の樹木である
この大樹こそがこの詩にとっての主役



三 「横浜開港資料館」

それは横浜市中区の中心地に建っている
横浜開港資料館
さほど大きくはないが白亜の瀟洒な洋館である
門を入って中庭に行くと
繁茂する緑
大樹がある
「たまくす」(タブノキ) 漢字で「玉楠」
調べると
「クスノキ科タブノキ属の常緑高木」とある

実はそれはハイネ作「ペリー横浜上陸の図」の
右上に描かれたあの木だと言われている
現存している 
命と系譜を繋ぎ
歴史を見て来た

時代の紆余曲折に
挫けず屈せず
今もけなげに鎮まっている
百七十年の時を経て―



四 「私とたまくす」

開港資料館の隣には
開港広場公園がある
まさに日米が条約調印した場所である
記憶を残すように石碑が立っている
道路を隔てて 斜め向かいに
私事ながら――自分の職場があった

私はその頃 書店に勤めていた 
その支店に四年ほどいたろうか(今は撤退)
ちょうど「MY DEAR」の「ネットの中の詩人たち」の
第一集が出たばかりの頃
私が任された小さな本屋にその本が入荷したのは
不思議としか言いようがない
やはり何がしかの縁(えにし)
導きがあったのかもしれない
私はその本を買い「MY DEAR」に初投稿した
二〇〇一年 六月か七月  古い話だ
そんな事情から
この大樹と「MY DEAR」は
私の中で不思議に同居する

以上は余談 話を元に戻そう

職場での私の昼休憩
たいてい外食し その後は
たいてい開港資料館の中庭で休んだ
たまくすの木を観て残り時間を過ごした
きれいに整備された中庭
大樹のせいだろう
太陽の下でも
真下は緑の影になる
位置はハイネの絵とほぼ一致する
当時よりも少し横に広がっている
時の流れの作用だろうか

そこで休む時はいつも天気は晴朗で
その木を観ながらいつも心は静かで
癒された記憶だけが残っている
当時からその木の由来は知ってはいたが
さほど興味はなかった
今 ことさら書いているのは
おそらく歳のせいだろう



五 「これからもー」

ペリーもハイネも条約も
それらは この国にとって
恩人・恩恵ではあるが
今はすでに
遥か歴史の彼方にある
このたまくすの大樹だけが
今も晴れがましく
生きた歴史を繋いでいる
これからも
そうであるだろう

私もその木にならって
願わくば自らの歴史を繋ぎたい
ペリーやハイネや条約よりも
私にとってはその木が常に親しい
これからも
かつてのように 折にふれ
たまくすの木の下で
ベンチに憩い 本でも読みながら
移ろう時代を感じていよう



*************************************************

付記
ハイネは日本に関する絵画・著述を実に多く残した。彼の実績の殆どは日本に関わる事らしい。
もっと注目されていい人物だろう。この国の過去の何事かがもっと理解できるだろう。

詳細な沿革・科学的な樹木調査によれば、「今のたまくすの木」にも、多少の修正が加わるのかもしれない。
が、それはそれ、これはこれである。
文学的に「全き継続、全きいのち」と信じてやるのが、伝承へのささやかな心くばりなのかもしれない。

編集・削除(未編集)

ロケットBBS

Page Top