堺 上田一眞
♫遠くで汽笛を聞きながら
何もいいことがなかったこの街で…
年寄りには懐かしい
アリスのヒット曲
この曲を聞くと
ある街の情景が目に浮かぶ
堺
私は二十年前
この街で一年弱を過ごした
父が他界して直ぐ
単身赴任
初めての地で
初めての営業第一線を経験した
会社人には
そのキャリア形成の過程で
越えねばならない切所がいくつかあるが
この地
この職がまさにそれであった
言葉の壁(方言と建築用語)克服
ゼネコン廻り
設計折込み活動
製品クレームへの対処
配下販売店の揉め事処理
さらに
扱っている会社の生産品は
お世辞にも出来がいいとは言えず
販売に窮した
流暢で洒脱なセールストークなど
出来るはずもなく
押し出し 貫目不足を露呈した
そして
顧客相手に
呑めない酒を喉に流し込み
大嫌いなスナックで歌を唄った
セールスの経験は
勉強にはなったが
自己のスキルアップには
なんら貢献してくれなかった
生活は荒れ
あっと言う間に十キロ増えた
ストレス太りだ
*
立春の頃
車で帰宅する途中
石津川の交差点に差し掛かったとき
空に父の顔がポカリと浮かんだ
父さんここは堺だ
堺の湊だ
この地に僕がいるなんて
信じられんだろ
こう語りかけ
生前父がよく話してくれた
ご先祖から伝えられた幾つかの逸話を
思い出した
遠い昔
廻船業を営むわが家の船が
丁銀や豆板銀を積み
防州・富海(とのみ)港を出帆して
塩飽諸島を越え
泉州・堺を目指した
小さい帆に二丁櫓の飛脚船〈飛船〉では
遠い堺まで
とてつもなく困難な航海であり
曰くのある
秘密の航海だった
*
堺を後にする前の日
防波堤に立つと
海霧が身体に纏わりついた
遠くで霧笛が鳴った
暫くすると
霧が晴れ
一陣の風が砂塵を巻き上げたが
見えぬ壁に阻まれた
堺の街には言い得ぬ結界がある
いやいや そうじゃない
結界はわがこころの内にあって
ただ 人を寄せつけなかったのだ
♫遠くで霧笛を聞きながら
何もいいことがなかったこの街で…
古い燈台を前に
そう口ずさんだ
岸壁で拾った石ころを海に向かって放つと
波の輪が広がり
連鎖してこころのなかにも広がった
輪は
途中で途絶え
こころのなかの波紋も消えた
私は海辺に立ち盡くした
顧みれば
激動の一年だった
しかも
決して幸せな一年ではなかった
このアメーバのような街にとって
私は異物
ひとりぼっちであることが
ことさら身に沁みた
私は虚空に向かって
石を投げ
漆黒の闇がそれを受け取った