団地の窪み 佐々木礫
住宅街の隅、団地の麓、
雑木林に囲まれた、
急勾配の坂の下。
そこには、
「通ってはいけない小路」があり、
「関わってはいけない人」がいると、
母親は俺に言っていた。
少年時代、ある日の放課後。
夕陽の下で、
光と影の錯綜する、
雑木林に心惹かれて、
俺はその坂を降りて行った。
一軒家ほどのプレハブ小屋は、
草が生い茂り、
タイヤの無い軽自動車と、
ミラーの割れたバイクが三台、
蔦に絡まり、止まっていた。
俺が来たのと反対側の、
暗くて細い小道から、
男が一人歩いて来た。
その肌は、西日を浴びて少し赤く、
他は全てが霞んだ容姿。
よれたジャケット、
縮れた髪の毛、
そして右の目、
これらは全て灰色だった。
彼、人の世の敗残者は、
齢十二の俺を見て、
何も言わずに背を向けて、
元来た道を歩き去った…
彼が件の男だろうか?
判然としない疑問を抱え、
何とも言えない帰路を辿った。
家の玄関のドアを開け、
「ただいま」
と言えば、
「おかえり」
と母親の声がした。
彼に会ったと、俺は言おうか迷った挙句、結局何も言わなかった。
家族の団欒、暖かな料理、清潔な部屋に柔らかな布団。そこには俺の居場所があった。
その中で、俺は夕方に見たものを、すっかり忘れて眠りに就いた。
しかし今日日、
山と夕焼けを見る度に、
生温い陽炎が立ち上がり、
その揺れの奥に浮かぶのは、
あの敗残者の影法師。
人目を偲び、目を背く、
自身の影に少し重なり、
憧憬にも似た心象を得る。
(俺は大人になったのだ)
疼く痛みと懐古と共に、
団地の窪みを想って悟る。