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スレッドNo.5089

うずくまる男  相野零次

一切光の入らない闇の中でじっとうずくまる男がいた
三角座りの姿勢のままぴくりともしない
いったい何をしているのだろう
男の胸に去来するのは過去の栄光のことだった
男はとある事業で大成功し巨万の富を得た
しかし腹心の男に裏切られ全てを失った
今いる場所はかつては豪勢な家具で彩られた自室だ
今は借金のカタに全て持ち去られて空っぽだ
空っぽの部屋の中でむちゃくちゃに嘆き、怒り、涙した
そうして何時間が過ぎただろう
男は気付けば三角座りでじっと黙り込んでいた
暴れる気力も失せてしまったのだろうか
部屋と同じように男の心も空っぽになってしまったのだろうか
すんすん、と男の鼻がうごめいた
どこかから夕餉の香りがしたのだ
腹がぐううとなった
男は苦笑いした
空っぽの部屋で空っぽの心で空っぽの腹が悲鳴を上げたことにまだ自分が生きていることを実感したのだった
男はゆっくりと立ち上がった
一糸まとわぬ全裸であった
引き締まった筋肉と均整の取れたスタイルであった
一流のスーツでも身に着ければ瞠目に値するであろう
そして気をつけの姿勢を取った
男はしっかりと会釈をした
いったい相手は誰だろう
闇の中には他に誰もいない
かつての取引先の相手を思い出しているのだろうか
あるいはかつての腹心と共に会釈したこともあったのだろう
今度はゆっくりと深呼吸した
静謐な部屋で空気が厳かに流動した
男の心は落ち着きを取り戻していた
失くした富は惜しかったが
それよりも裏切られた傷は深かった
身体の傷はすぐに治っても心の傷はすぐには治らない
男はそれなりに修羅場を潜り抜けてきたので
そのことは身体で理解していた
身体には無数の傷跡があった
男はぐっと拳をにぎりしめた
そして空手の型を演じ始めた
高段者であった
静かで真っ暗な部屋の中で男は無言で型を続けた
裂帛の呼吸の音 手足の風切る音 踏み込む足音が響いた
猛獣がそこにいるかのような気配が部屋に満ちた
空手の型が終わると
ゆっくりと部屋を見まわした
一切の光はなかったが
夜目が効くのだろうかあるいは見えない何かを見ているのだろうか
男の眼から大粒の涙がひとつ零れた
頬を伝い
首を伝い
胸を 腹を 足を伝い
地面にまで届いた
深い悲しみの涙であった
男はゆっくりと歩き出した
方向感覚だけでドアの位置を割り出したのであろうか
ドアに辿り着きドアノブを回した
ドアは開いた
光が男を照らした
逞しい身体の影がくっきりと浮かび上がった
「………」
男は何事か呟いた
小さすぎて聞き取れなかったが
きっと前向きな言葉であったのだろう
男の胸の内から一片の希望が生み出された瞬間だった

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