尊攘義民 上田一眞
1.長州
幕末 元治元年(1864年)
狂ったように長州は全藩尊皇攘夷に
邁進しようと沸き立っていた
そんななか 藩は
蛤御門(禁門)の変に敗れ
幕府による征討を受ける
そして
四か国艦隊による馬関(下関)砲撃に
前田砲台の占拠と
恥辱にまみれていく
俗論党(守旧派)の巻き返しで
藩政府は一挙に佐幕化
このような
先の見えない混沌とした状況のなか
ある一人の男が
萩・野山獄から解き放たれた
高杉晋作
「動けば雷電の如く 発っすれば風雨の如し」
伊藤博文をしてこう言わしめた
稀代の風雲児だ
2.晋作
司馬遼太郎の小説
「世に棲む日日」にこんなくだりがある
晋作は山形(狂介)の返事を待たずに三田尻
を脱け出し、峠をこえて夜明け前に富海(と
のみ)の浜へ出、おりから帆をあげて出港し
ようとしている便船に飛び乗った。 *1
俗論党渦巻く萩にいると
命はないものと判断した晋作は
山口経由で三田尻に潜伏
富海から飛船(飛脚船)に乗り
九州へ逃げる
その後
四か国との交渉役を果たし
俗論党政権を打ち倒すなど
八面六臂の活躍を見せたのもこの人だ
3.大和屋
ここで小説の行間に埋もれた歴史を
掘り起こす
富海で晋作をかくまい
飛船で馬関まで送ったのが
大和屋政助(やまとやまさすけ)だ
大和屋は屋号で廻船業を営んでいた
本名 清水与兵衛
勤皇の志士の活動を援助した人で
船による長州藩員の輸送などに尽力した
*
富海・西の浜のわが家の墓所
そこから僅かに浜側に寄った所に
自然石の墓石があり
こう揮毫されている
尊攘義民 大和屋政助墓
今は墓参に訪れる者とて少ない
うらぶれた墓所
名もなき民だ
富海にはこういう人が多い
大和屋政助の他に
七卿落ちのとき三田尻で公卿たちの世話をした
入江石泉など
また
富海・石原にある円通寺は
一時 奇兵隊の屯所だった
4.尊皇
維新回天の業は
高杉晋作や桂小五郎ら少数の英傑だけで
成されたのではない
このような
名も無い民草の支持と援助があった故だ
彼ら草莽の臣を支えたのは
尊皇
つまり天皇を敬うこころ
この単純明解な思想が
武士だけでなく百姓・町人に至るまで
老若男女を問わず
防長二州津々浦々に満ち満ちていた
恐るべき感染力だ
やがて倒幕に転嫁される
この情念の渦
大和屋政助の墓石を見るたびに
私は
歴史のダイナミズムは
民衆のなかにこそ生まれると得心する
*1 三田尻 防府市の駅南一帯の古い呼称
富海 防府市の東部地域