感想と評 2/7~2/10 ご投稿分 三浦志郎 2/15
1 上原有栖さん 「橙灯(とうとう)」 2/7
初連から2連。非常に優しく柔らかな書き方をされているのがよくわかります。3連は暗闇に対する来歴。これはひとつのトラウマでしょう。4連はふとしたこと(ブレーカー落ちでしょう)から気づいた灯りの存在。暗闇とは大人でも心理的に不安になったり、時に恐怖を伴うものです。子どもならなおさらでしょう。その意味で、3連と4連は時間が接近していると思われます。20年も30年も経って初めて、その灯りに気づくことはあり得ないからです。「まだ暗闇の恐怖を克服したわけではないけれど」とありますので、
これは回想詩の一種ですが、さほど大昔の話ではない気がします。
「私はぼんやりと橙色に染まった」がとても印象に残る一句ですね。
冒頭書いたフィーリングが気持ちよく維持され、心いっぱいの感謝の念が綴られています。
好感の持てる一作です。光への感謝というのも、一風、変わっていて良いですね。甘め佳作を。
アフターアワーズ。
少し調べましたが、ナトリウム灯は点灯して初めてそれとわかるようです。光効率や寿命でも優れているようですね。優れたものに守られての眠りのようです。 良い眠りを―。
2 佐々木礫さん 「街路樹の涙」 2/7
タイトルを見ると擬人化を予感させますが、果たしてその通りになっていますね。
構図としては、街中で信号待ちの「僕」。語り手も兼ねる。「彼」に擬人化された枯葉。初連は場の提示としての語りですが、次の「あの服、~」から「枯れ葉が落ちる」までの、特にセリフ部分の全否定性が、僕にはわかりませんでした。他に対象者がいないので、さしあたり枯葉の事か、「信号待ちの僕」のどちらかと理解せざるを得ないわけです。もし後者として、居合わせた他者にこんな酷い言葉を言うかどうかの疑問。いっぽう「友達いないのも納得」は顔見知り的発言だし。一体、この発話者は誰なのかも気になるところ。
ここだけ、ちょっと異様というか違和感を感じました。
あとは大丈夫。風と雑踏に翻弄される枯葉の姿です。
ただし枯葉は明るく笑ったりしている、そのことの不思議も感じます。一瞬「僕」との触れ合いを持ったかのようです。それを最後に彼は車に轢かれる。この詩の背景が信号待ちの僅かなひとときというのが面白いです。僕の場合、やはり初連直後のセリフのありようが気になり、謎となっているわけです。佳作一歩前で。
3 荒木章太郎さん 「牛丼のうた」 2/8
前回の改作ですが、全く新規と捉えてみましょう。その際、2/5付、荒木さんのコメントを参考にしました。他の読み手もだいたいわかるとは思いますが「社畜」についてネット上解説を引用しておきます。「主に日本で、社員として勤めている会社に飼い慣らされ、
自分の意思と良心を放棄し、サービス残業や転勤もいとわない奴隷(家畜)と化した賃金労働者の状態を揶揄、あるいは自嘲する言葉である」―となります。主人公はたまたま息子と牛丼を食べ、そこから「家畜(牛)=社畜」のイメージに繋がったと思います。そして自分の半生はそのようであったと回想します。5連がその典型でしょう。しかし息子にはそうであってほしくない。もちろん選択肢として、「群れを嫌って狼」もあり、だし、「一人が辛くて」なら犬くらいなら……。まあ、いろいろ考え方はあるわけです。そこで、「主人公=父親」の思考は少し停滞するようです。しかし伝わってくるものは「最低限、オレのようにはなってくれるな。雑事に捉われることなく、よりシンプルに、お前の自由な意志で」といった主旨でしょうか。究極の願いは終連にあるようです。生き方を示唆して佳作。
アフターアワーズ。
この詩には時代背景がけっこう関わってくるように思います。昭和の企業最盛期に働き盛りを迎えた親世代は少なからず”社畜的要素“は想像するに難くないです。エグイ言い方をしてしまうと”社畜的“というのは会社にとっては好都合なんです。その代わり、その時代、会社は「年功序列・年金、保険等の世話、終身雇用」をまずまず用意していました。露骨に言ってしまうと、これらは会社対個人の、ある種、取引、ギブ アンド テイクと取れなくもない。そういった親世代です。逆に時代が動いて、今の世代の人は”社畜的”な要素はあまりないと思えます。イヤなら、とっとと辞めて他を探すか?それとも、今は辞めるとなかなか次がないのかな?その辺はよくわかりませんが、聡明な読者諸氏は、この詩から、そういった時代意識のギャップみたいなものを感じても興味は尽きないと思ってます。
4 上田一眞さん 「尊攘義民」 2/8
禁門の変・七卿落ち・四か国艦隊砲撃事件・長州征伐など、教科書に出てくる事変が並びます。
この頃の長州はまさに“泣きっ面にハチ”状態ですが、よく耐えて、やがて尊王攘夷~倒幕を実現します。この詩で描かれるのはそんな時期の高杉晋作らですが、ここではさらに掘り下げて、それら影で支えた人々を活写します。「世に棲む日々」が引用されますが、国民的大作家でもカバーしない草莽の志のことです。この事は郷土史家やその土地の人々の領域であり語りの場であるでしょう。特に薩摩と比べ、長州は「歴史のダイナミズムは民衆のなかにこそ生まれる」の感が強く、この終句は言い得て妙であります。おそらく奇兵隊の影響でしょう。この詩はそんな長州人の矜持を謳っているとも言えるのです。そういう人の墓所が近くにあるというのは上田さんご自身がそういった歴史伝統の中に身を置いているとも言えるのです。次に違う方面を書きます。この詩の持つ叙事的側面のことです。歴史をファクターとして、明らかにこの詩は”叙事“してます。タイトルもそれに連動します。水無川さんの詩集のタイトル詩の感想でも書いたのですが、ノンフィクションとしての歴史を、もっと詩のモチーフ余地としてもいいのではないか、と僕は思っています。
この詩はその接点になる詩です。僕にとっての共感です。佳作を。
歴史アフターアワーズ。
高杉晋作はあれだけの風雲児なので、華々しく討死、と思ったんですが病死なんですね。ちょっと意外の感がしました。長州というのは―印象で言うとー逸材が本格的維新の前に、けっこう死んじゃうんですね。吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、大村益次郎。いっぽう薩摩は西郷~大久保の双頭体制ですが、長州は残った木戸一人(伊藤・山県はまだ格下の印象あり)。
そのあたり、ちょっと気の毒でしたね。木戸~高杉(あるいは大村)の双頭ならば、もっと凄かったと思いますね。しかし、その後も長州は人材を出し続けます。ともかく関ケ原の負け組が覆した、と思うと歴史ってホント、面白いですよね!ただし僕は明治維新は西欧流定義での革命であったとは思っていません。ごめんなさい。
5 山田貴志さん 「詩」 2/8
詩への今の気持ちとその来歴がシンプルに綴られています。前者が1連と3連で、後者が2連と4連ですが、連の順番を換えたほうがいいように思います。すなわち……
「1→2→4→3」 つまり中間に経過を配して、結果の3連を最後にして、1連と循環させるといった構図です。その際、来歴は紆余曲折を含めて、詳しく書く必要があるでしょう。先生にいきなり言われて、当時関心がなかったが、何がきっかけで書くようになり、賞を取るに至ったか、といったことですね。作品自体は少し詩的修辞を設けて、詩の純度を上げておきたいところです。
評価の始めは上記のような要素を加味し、佳作二歩前からお願いします。
6 静間安夫さん 「イデオロギー」 2/10
念の為「イデオロギー」をネット検索してみました。
1 思想や考え、信念や理念をまとめたもの
2 特定の政治的立場に基づく考え
1は何の問題もありません。ごくピュアな定義の姿です。ニュートラル=どちらにも偏らないさまです。2になると少し怪しくキナ臭くなります。
この詩は、この二つの本質と事情を描いて、そのジレンマを表現していると思えるのです。
たとえば「愛」。これは抽象・具象・気高さ・下品含め、全方位、360度から論じられます。そこまでではないにしろ、イデオロギーも同じように360度から把握されてしまいます。そして、厄介なのは、この言葉に付着するニュアンスの多さ、夾雑物の多さが、1の理念を怪しくしてしまう張本人たちと思ってます。同時に、この詩は、その煩雑を訴えたものだと把握できるのです。そしてこの言葉はある特定政治集団から、いいように利用されてしまう、いかようにも染め上げられる、一種のひ弱さも持っているようなのです。
ナチス政権しかり、ロシアの(レーニン・スターリンによる)一連の革命しかり、です。詩はそんな具体をも伺わせています。1から2へ、人為的に肥大化すると歴史に歪みと悲劇を与えるかのようです。この詩において人格化されたイデオロギーは、この詩において実情を読者に向けて訴えているでありましょう。上記に鑑みて、充分考えさせられる詩的課題、思想的課題であるでしょう。
この詩はあと二つの重要なことを言っています。「自発的に運動に参加するのではなく/異端と呼ばれるのを怖れるのあまり/強いられるままに」―ここですね。国家権力とイデオロギーがセットで発動される時、人はこのように、のっぴきならない立場に置かれてしまう。もうひとつは「自らの生に意味を求めること」から始まる詩行パーツです。これも真実です。あまりにも政治的人間はこの為にイデオロギーにすがることはあるでしょう。サイズを使って、じっくり思慮深く筆を運んでいます。結果、極めて説得力を帯びています。 佳作を。
「イデオロギーさん、あなたは悪くない。どうぞ、そのままでいてください。課題はそれを考え、行動する人間の側にあるのだ、と」
7 白猫の夜さん 「雪の餞」 2/10
七五調の採用です。この語調は現代では古くさくて、あまり使われないのですが、今回は敢えて使って、いにしえ感を出したものでしょう。あくまで静かで、わずかに哀しく、民話のような世界を醸しています。しかし、こんな静謐な白銀世界には非常に気になる所があるのです。
「幼き子供に/熱は無い」―(はて、何で急に子供が出て来るんだろ、しかも熱はない?)
そして3連。ここは全てが謎、とりわけ「払う大人の/血濡れた手」、そして4連「酷な世界」。
そしてタイトルの一部「餞」(はなむけ)。これは餞別の「餞」です。意味は旅立つ者へ旅の門出を祝い道中の無事を祈る行為ないしは物品のこと。「馬の(鼻)を旅の方角に(向ける)」が語源で「はなむけ」。
そう考えると、このタイトルも妙に気にかかります。“はなむけられる”のは幼子しか考えようがないのです。白銀に一点の赤が鮮やかですが、胸騒ぎがします。なにか不吉というか、空恐ろしいものを感じてしまいます。この詩の美しい背景において、です。なにか陥穽というか何かが仕掛けられている、としか言いようがなく、これ以上書かないほうがいいでしょう。佳作半歩前で。半歩は“その部分”です。
評のおわりに。
エピソードをひとつ。
荒木章太郎さん作品「牛丼のうた」の中に「社畜」といった言葉が出て来ます。
これは安土 敏(あづち さとし)という作家が作品「小説スーパーマーケット」の中で考案した造語です。実はこのかた、
本名を荒井伸也氏といい、首都圏チェーンストアであるサミットストア(現サミット)の当時の社長・会長でした。実業家兼作家で、
小説や業界論など著作が多いです。
ちなみに僕は若い頃、この会社に約十年ほどお世話になりました。社長は大変、頭脳明晰な人でした。さらに言うと、「小説スーパーマーケット」は伊丹十三監督作品「スーパーの女」の原作本であり、撮影にはサミットが全面協力したそうです。 ちょっと懐かしかったので、長々と書きました。 どうぞ、お許しを。 では、また。