MENU
1,158,364

スレッドNo.5184

評 2/4~6ご投稿分  水無川 渉

お待たせいたしました。2/4~6ご投稿分の評です。コメントで提示している解釈やアドバイスはあくまでも私の個人的意見ですので、作者の意図とは食い違っていることがあるかもしれません。参考程度に受け止めていただけたらと思います。

なお私は詩を読む時には作品中の一人称(語り手)と作者ご本人とは区別して、たとえ作者の実体験に基づいた詩であっても、あくまでも独立した文学作品として読んでいますので、作品中の語り手については、「私」のように鉤括弧を付けて表記しています。ですが、「私」=「作者」の場合はもちろんそのように読み替えて読んでいただければ幸いです。

●樺里ゆうさん「ヒヤシンス」
 樺里さん、こんにちは。ヒヤシンスですか。小学生の時に水栽培した記憶がありますが、それから何十年も縁のなかった花に樺里さんの詩を通して再会することができました。
 冒頭2連で語り手の「私」が一人暮らしをしていることが分かります。このコンパクトな導入は自然で良いと思います。
 匂いを嗅ごうと顔を近づけた自分の姿が口づけの姿勢に似ていることが分かる。ヒヤシンスの名称はギリシア神話の美青年ヒュアキントスから来ているということを連想することもできるでしょう。そしてそこから詩はかつて「ある人」に寄せていた「私」のほのかな想いへと展開していきます。けれども結局相手は結婚し、その恋は成就しないまま終わります。
 「私」はその人に対する自分の想いを素直に認めようとしません。そして別々の町に暮らすようになって、「心底安心していた」と言います。でも最終連が「私」の本当の感情を表現しています。今年「私」がヒヤシンスを育てなかったのは、それによって相手を思い出してしまうことを避けたかったからでしょう。逆に言えば、「私」はまだその人のことを忘れられない、ということになりますね。
 ヒヤシンスの花言葉は「悲しみを超えた愛」だそうです。意図されたものかどうかは分かりませんが、この詩のテーマにぴったりですね。ヒヤシンスに託して切ない恋心が上手く表現されていますが、それが淡々と抑えた筆致で描かれていて素晴らしいと思いました。初連と終連で時の経過と「私」を取り巻く状況の変化がうまく表現されているのも良いです。評価は佳作です。
 一点だけ。調べたところ、ヒヤシンスの通常の開花時期は3-4月、温かい室内で育てると2-3月に花が咲くようですが、この作品では1月に咲いたことになっています。これが実体験を元にした作品で、本当に1月に咲いたのならそれを否定しようとはまったく思いませんが、園芸に詳しい人が読むと軽い違和感を覚えるか、作者があえて意図をもって季節外れに早咲きしたことを伝えようとしているのかと受け取る可能性があります。もし冒頭の「1月」にこだわりや特別な意図があるのでなければ、より一般的な開花時期に設定した方が良いかと思いました。ご一考ください。

●荒木章太郎さん「耳でいたいな」
 荒木さん、こんにちは。言葉はほんの一文字変えるだけでまったく違った意味になったり、同じ表現でも文字通りの意味で使うこともあれば比喩的に使ったりすることもありますが、そうした日本語の面白さが味わえる作品だと思います。
 まず冒頭では、冬の冷気にさらされて文字通りに「耳がいたいな」。次に、これまでの人生を振り返り、自分の生き方を問い直させるような、あまり聴きたくない「声」や「叫び」を聞いた時の、比喩表現としての「耳がいたいな」が2回繰り返されます。最後に、自分のエゴにこだわらない生き方へのあこがれを表現した「耳でいたいな」でしめくくられます。タイトルにもなっている最後の「耳でいたいな」が結論であり、本作品の中心的メッセージだと思います。
 このように、本作品は「耳」に関わるいくつかの表現を枠組とした構成を持っています。これを間の各連をアルファベットで置き換えて図式化すると次のようになります。
 A
(文字通りの)「耳がいたいな」
 B
 C
(比喩としての)「耳がいたいな」
 D
(比喩としての)「耳がいたいな」
 E
(結論としての)「耳でいたいな」

非常にすっきりと分かりやすい構成で、それ自体はとても良いのですが、骨組みとなる「耳」フレーズをつなぐ部分の表現にもう少し工夫が必要な気がしました。具体的に言うと、B-C、それからEの部分です。
 まずB-Cでは、語り手の「俺」が何を聞いて耳がいたいと思ったのかがはっきりしません。内容からすると、現実から目を逸らして生きてきた自分の姿を指摘する「声」ということでしょう。それが自分自身の声なのか、窓から流れ込んできた寒波の声なのか分かりませんが、とにかく「耳がいたい」と受けるためには、その前に何らかの「声」の存在が描かれている必要があると思います。それともここの「耳がいたいな」は比喩ではなく、まだ最初の「耳がいたいな」と同じく文字通りの意味での冷気にさらされた耳の痛さを語っているのでしょうか。よく分かりませんでした。
 Eについても、その後の「耳でいたい」につながる内容になっている必要があります。内容からすると「青空=耳」ということだと思いますが、なぜ青空を耳に喩えたのか、なぜそれが「俺」にとっての理想なのかがよく分かりませんでした。それまでのパートで語られてきた、自分に都合の悪い声であっても痛みを感じつつ真実に聴き続ける耳のような存在でありたい、ということなのかと思いましたが、もう少しその辺りが伝わるように工夫していただければと思いました。
 全体のコンセプトと構成はとても面白いと思いますので、間の肉付けの部分をもう少し推敲すると、もっと良い詩になると思います。ご一考ください。評価は佳作一歩前となります。

●松本福広さん「bungyeeeee‼︎」
 松本さん、こんにちは。バンジージャンプは私はやったことがありませんが、日本にもできるところがあるのですね。ご紹介いただいたサイトも見てみましたが、毎年1万人以上ジャンプしているというのは驚きです。
 実体験したことでなければ詩にしてはいけないということは全くありませんが、この作品を拝読して、おそらく作者は実際に飛ばれたのだろうと思いました。そのくらい臨場感のある描写でした。飛ぶ前の不安と緊張、飛んでいる最中の気持ち、そして引き上げられる時の感覚など、評者も含めバンジージャンプをしたことがないであろう多くの読者が、実際に体験しているような気にさせてくれるという点では、とても優れていると思います。
 終連は「とある場所では~」の行からは別の連にした方が良いかと思いました。この部分では最後にクスリと笑えるユーモアもあって、良い締めくくりになったと思います。
 タイトルの「bungyeeeee‼︎」もeを重ねて弾力性のあるロープが伸びる様子を上手く表現していると思います。評価は佳作です。
 これは私の単なる思いつきですのでスルーしていただいてまったく構わないのですが、飛んで落下していく部分では一行の長さをもっと短くして細長い連にすると、ロープが伸びていく感じを表現できて面白いのではないかと思いました。これは評者だったらこうするかもしれない、ということで、現状でもまったく構いませんので、あくまでご参考までに。
 
●森山 遼さん「もしかしたら永遠」
 森山さん、こんにちは。この詩は森山さんに特徴的な、断片的な言葉を独り言のようにぽつりぽつりと繰り返す語り口で書かれていますね。このようなアプローチの是非については以前三浦さんがコメントされていましたように、評者によって意見が分かれると思いますので、その点について踏み込んで語ることはしません。個人的には、詩の表現方法はいろいろあって良いと思いますので、特定の形式だけを取り上げてその作品の是非を判断することは避け、それを通して何が伝わってくるかを考えたいと思います(そして、その受け止め方や解釈も読者によって当然変わってきます)。
 前置きが長くなりましたが、この作品では「朝の無意識と意識の狭間」という表現が繰り返し出てきます。これが詩の状況設定を表していると思います。目覚めの時の夢ともうつつともつかない精神状態で語られた言葉、という体裁になっており、現代文学で言う「意識の流れ」のような手法を思わせる内容と言えるかもしれません。したがって当然連分けもありませんし、論理のつながりもところどころ不明瞭なように思いました。こういう詩は頭で理解すると言うよりも、言葉の流れに身を任せて、全体として伝わってくる感情やイメージを味わうべきなのかも知れません。
 その上であえて内容を評者なりにまとめてみますと、この詩では「わたし」の生の苦しみが語られているようです。そしてその苦しみは他者との関係性から来ています。最初に1回だけ「あのひと達」が出てきますが、そこから後はすべて「あなた」との関係が語られます。この両者の関係はよく分かりませんが、「あのひと達」への信頼は報われたようですね。ところが「あなた」は違います。
 この詩の中間部は「わたし」と「あなた」の関係をめぐって展開します。「わたし」は「あなた」を愛し、信じているが、「あなた」が自分を信じて(愛して)くれているのか確信が持てない疑いに苦しみます。その苦しみが詩の後半部では自分が生きていることの意味についての悩みへと移行していきます。そして「わたし」が最後にたどり着くのは、死の後にある再生の希望です。これがタイトルの「もしかしたら永遠」につながってくるのだと思いました。このように、大まかな流れをとらえることができるかと思います。
 率直に申し上げて、このスタイルがどの作品でも成功するかどうかは分かりません。しかし、本作品に限って言うならば、「無意識と意識の狭間」の詩として、一定の効果を上げていると感じました。朦朧とした意識の中で思考の断片がぐるぐると回っている感覚がよく伝わってきますし、「わたし わたし」や「死ぬ 死ぬ 死ぬ」といった繰り返しも、頭の中でエコーがかかっているような感覚で受け止めることができました。そういった意味で、これは特殊な作品と言えるのかもしれません。そのことをお断りした上で、評価は佳作とさせていただきます。

●温泉郷さん「根絶」
 温泉郷さん、こんにちは。この作品でフイリマングースのことを初めて知りました。奄美大島をはじめ世界各地で最初は害獣やヘビ駆除の目的で導入され、それが思わぬ影響を及ぼすようになったため、一転してマングースたちが駆除されるようになっていったのですね。調べると奄美大島では昨年9月にフイリマングースの「根絶」が宣言されたとありました。そのような時事的な話題を鋭敏にキャッチして詩に表現する感覚は素晴らしいと思います。
 フイリマングースを奄美に持ち込んだのも人間、根絶したのも人間。自分に都合が悪くなると「特定外来生物」というレッテルを貼って厄介者扱いする……。人間の身勝手さが如実に現れた事例ですね。そのことがよく伝わってきました。
 語り手は人間のエゴに翻弄されるマングースたちの想いについては、「それは分からない」とあえて踏み込むことをしません。この抑えた筆致がかえってこの詩の悲劇性を高めているように思います。パーツとしては、6連の「尻尾が疑問符の形になったのか/それは分からない」の部分が印象に残りました。最終連はとても重く切なくて、心を打たれました。
 人間と自然との関わり、いのちの重みについて、いろいろと考えさせてくれる素晴らしい作品でした。評価は佳作です。



以上、5篇でした。今回もご投稿ありがとうございました。厳しい寒さの中にも春の兆しが感じられる季節となりましたが、急な天候の変化で体調を崩さぬよう、みなさまご自愛ください。

編集・削除(未編集)

ロケットBBS

Page Top