日本語 静間安夫
「おい、ところで、おまえ今年いくつになった?」
「失礼ね、女性に歳を聞くなんて。だいたい、あなたと同い年に決まってるじゃない。同じ年にこの門の両側に植えられたんだから」
「それもそうだな…うっかりしていたよ。お互いに当年とって150歳ということか」
「そうよ、それにしても時が経つと、いろいろ変わるものね…50年前、100年前には、こんなに大勢の外国の人が、このお寺に参拝に来てくれるなんて、思いもかけなかったわ」
「たしかに。今日は天気もいいし、参道は観光客でいっぱいだけど、かなり外国人が多いね。ほら、門の前で押し合いへし合いしながら写真を撮ろうとしてるのも外国人だよ。ちょうど俺たちが満開になったからかな?誰かが『○○寺門前の紅白の桜』とかいってSNSに写真をあげたのかもしれない」
「まぁ、オーバーツーリズムとか、いろいろ問題はあるけれど、でもこれだけたくさんの海外の人が、日本の風景や文化に興味を持って見に来てくれるのは、やっぱり嬉しいことよね」
「俺も同感だ。今や日本は世界の人たちにとって遠い極東の国ではなく、かなり身近な国に感じられるようになったんじゃないかな?併せて、日本の文物に対する理解も深まってきたと思うよ」
「きっとそうよ。でも、そんな時代になったにしては、肝心の日本人が自分たちの良さを本当にわかっているか?っていうと随分あやしいものね」
「まったくだ!だいたいからして、一番大切なものを自ら粗末にしているからね」
「そうそう、世界中を見回しても、これほどオリジナルで素敵な言葉を祖先から受け継いだ国民は少ないかもね」
「そのおかげで、どれほど心豊かな生活を送れているか、あまり気付いていない。例えばだ、産まれたばかりの女の赤ちゃんに親御さんが俺たちの名前をつけようとしたら、少なくとも候補が三つあるわけだ。まず漢字一字の『桜』、次にひらがなの『さくら』、それにカタカナの『サクラ』だ。この国の言葉は、同じ音を三つの違った文字で表すことができるからね…どうだい、桜ちゃん、さくらちゃん、サクラちゃん…どの名前にもそれぞれのニュアンスがあって、それぞれに可愛いらしい。一つに決めるには、ご両親もさぞ悩むことだろう」
「ほかにも例は幾らでも挙げられるわ。昨日うっすらと粉雪が舞ったけど、お雪さん、おゆきさん、おユキさん…なんて三人いたら、あなた、どの名前の女性にも、会ってみたくならない?」
「その通り!ただ、おまえが妬かないでくれればだけど…まぁ、それは置いといて、同じ yuki という発音でも、表す文字によって語感が違うからその名前を持っている人のイメージも変わってくる。このことひとつとっても、日本語がいかに繊細な表現力を持っているか、わかろうというもんじゃないか」
「そうした繊細さが豊かな文学を生み出したのはもちろんだけど、それだけじゃないわ。もともと人間が物事を考えるときは、言葉で考えるのだから、日本人が考えて創り出したものは、全て、日本語の力が関係してるはずよね?だとしたら、この国の人たちが古くから丹精込めて生み出し、受け継いできた、数々の工芸品や織物が、なぜあれほど類まれな美しさと繊細さを併せ持っているのか、その理由がわかる気がするの」
「伝統工芸だけでなく、日本の工業製品の品質の高さも同じ理由だと思うよ。とりわけ現場技術の分野では観察した事実を丁寧に表現し、微妙なニュアンスまで含めて伝え合うことが重要だけど、まさにその際、日本語が大きな力を発揮しているに違いない」
「こうした背景がわかれば、最近の極端な英語教育推進論がどれほど危険なものか、おのずと気が付いてしかるべきよ!そうじゃなくって?日本語の勉強が中途半端なうちに、英語の勉強に重点を移してもいいことなんかないわ!」
「まぁ、そう熱くなるなよ…ただ、おまえが言ってることはもっともだ。たしかに、将来の日本人が、みな、自由自在に英語が話せて、英語で思考できるようになったら、ビジネスの分野で相応の効果は得られるだろう。でも、その反面、日本語の能力が下がってしまったら、日本人独自の発想や創造力は間違いなく失われる。そのリスクは十分考えるべきだ」
「そうなったら、日本人は世界の中でアイデンティティをなくしてしまうかもしれないわ。これと言って特徴のない平板な国に次第になっていき、それこそ50年後、100年後には、大勢の人が海外からお参りに来てくれる様子を見ることもできなくなってるかも…もちろん、私たちが枯れていなかったとしての話だけど」
「だからこそ、俺は、日本人のアイデンティティとは何か?と問われたら、『それは日本語です』と日本人自身に答えてほしいのさ!」