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スレッドNo.5271

羽化 上原有栖

拝啓 息子よ 元気で過ごしているか
この手紙を書いた日には 数日前から降り続いていた雨がやっと止んだ 寒さも幾分和らいできたから
早朝久しぶりに近所を散歩してみたのだよ
覚えているか 昔よく遊んだ公園のことを
そこの隅に生えている蜜柑の木の枝に
揚羽蝶の蛹を見つけた 揚羽蝶は蜜柑の葉っぱが好きだからな

蛹はいつ見ても不思議な形をしている 調べてみたら被蛹(ひよう)※という名称らしい お前が小学生の頃に虫かごで幼虫から育てていたのを覚えているぞ
枝に糸で固定されている蛹は もうすぐ羽化が始まりそうだった 蛹の表面が透明で翅の色が透けていたからあと少しで成虫になると分かったのだ

私は蜜柑の木の横にある鉄棒に寄り掛かりながら
羽化の瞬間を待った その間に 空を覆っていた灰色の雲が頭上をするすると通り過ぎていく
どのくらい経っただろうか その時は訪れた
もぞりもぞりと ゆっくり羽化が始まったのだ
蛹の上部が割れて成虫となった揚羽蝶が出てくる
羽化したての蝶はまだ弱々しい 硬い蛹の中に仕舞われていた翅は皺くちゃでまだ頼りなく湿っている

揚羽蝶の全身が蛹の外に出てきた 冬を越した蛹は春型の蝶になる 夏に羽化する夏型の蝶と比べて小柄だけれど 翅の黄色が春を待つ灰色の街によく映えていた
これから飛び立つために翅を乾かすのだろう 綺麗なまだら模様の翅が時間の経過と共に少しずつ伸びていく この模様を形成する鱗粉は幼虫時代に食した葉っぱ等の食べ滓で出来ていると本で読んで ほぅ と唸った記憶がある

とうとう翅が伸びきった 確認するように数回
ゆっくり前翅と後翅を動かす
それからふわりと揚羽蝶は空中に舞い上がった
これから何処に行くのだ?
花の蜜を求めて風に乗るのか?
揚羽蝶は私の周りをくるくると飛び回った後に公園から出ていった
蝶が羽化をしてからの寿命はだいたい二週間と言われている 長くても一ヶ月程度の命
もう会うこともないだろうと 揚羽蝶が飛び去った方向を見つめて私は少し悲しくなった

昆虫にとって羽化は大仕事だ
卵から孵化し成長して さあ蛹からの成虫だと羽化の瞬間を迎えたその時
途中で落下してしまったり 天敵に襲われたり 自然の中で無事に成虫になるのは数パーセントだという
しかもその一生の全てを己自身で成し遂げる必要がある
一方 人間には家族という繋がりがある 普段は気にしないかもしれないが これは大切な事だと思うぞ

息子よ
たまにはこっちに帰ってこないか 虫かごのように窮屈だと言って家から飛び出してから お前の体調を母さんはいつも心配している
家を出たがったお前を引き留める理由はない ただ少しくらいは連絡を寄越しておくれ この手紙を読んで返事をくれることを願っている
我が家はお前にとっては虫かごみたいなものかもしれないが 私たちは頼もしく成長したであろうお前の顔を久しぶりに見て 声が聞きたいのだ
時は有限でありお前が思っているよりもずっと儚いものだから

敬具 口下手な父より


※被蛹(ひよう):脚などの付属肢が身体と融合している蛹の名称となります。チョウ目や甲虫類のグループがこの蛹の形をとるようです。

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