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スレッドNo.5275

父の背中  上田一眞

1.五右衛門風呂 (昭和三十七年春)

わが家の風呂は五右衛門風呂
鋳物の釜に水を張り
焚き木を燃やして湯を沸かす

釜の底が熱いので
敷板を踏みながら湯舟に入る
父と二人
並んで入ると
いくら身体が小さい僕とはいえ
いささか窮屈だ

ざんぶと飛び込むと
お湯がざぁと溢れる
爽快この上ない

若き日 相撲に熱中していた父
色白で
肩幅が広い

 お父ちゃんこれ何
 どうしたの?

袈裟掛けに斬り下げられたような
右肩から左脇腹まで
背中に負った大きな傷跡
僕は恐る恐る指でなぞった

  ああ それな
  手術した跡じゃ
  ぼくは小さかったから覚えてないじゃろう
  お母ちゃんに手を引かれ
  見舞いに来ちょったなあ

天井からポトリと一滴の雫が落ちた
僕の脳髄に
去来する記憶の輪が
広がった


2.サナトリウム (昭和三十二年春)

光駅に降り立ちバス停に向かう

 お母ちゃん早く早く
 バスが待っちょる

首振りのトレーラーバスに乗り
るんるん気分で浮かれながら
父が療養する
サナトリウムに向かう

暫くすると
コールタールで塗られた
黒い板壁の建物が見えて来る

   ぼく お父ちゃんの顔を
   よく見ておきなさいね

サナトリウムに入る前
母は願うように
囁いた

無数の寝台が一列に並ぶなか
端っこに横たわる父
白い病衣が目に滲みる

肺結核を患った父
明日は療養の帰結である摘出手術だ
病状は重篤で
命の灯火は揺らいでいた

無言の父
父母の会話はよく覚えていない


3.虹ケ浜

サナトリウムを出た後
虹ケ浜の海辺を母とともに歩く

美しい松林
転がる松露
瀬戸内の優しい波音に誘われ
母は波打ち際まで歩み
しゃがみ込んだ

何を思ったのだろう
春霞たなびく朧な海を見つめ
痛いほど僕の掌を握った

幼い僕には知る由もないが
死神が忍び寄り
父の命を窺い
母子の淡い影を踏みつけていたのだ

砂浜に母の祈りを残し
千鳥が飛ぶ

無数の鳥
その姿を瞼に置きながら
僕の記憶は途絶えた

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