日本左衛門は若かった 津田古星
父の末弟である叔父に言われて
先祖のことを調べることになった
兄が仏壇の下の引き出しから
お寺の過去帳の写しを持ってきた
江戸時代初期万治三年からの
先祖の戒名と俗名が並んでいた
八代で絶家し 以後分家が祭祀をなす
江戸時代末期まで隣村の庄屋だったらしいが
身代を潰して居を移した
その先祖は酒で身をほろぼしたと
父は生前言っていた
祖父も父も酒は飲まなかった
欄外に 誰が書いたのか
有名な日本左衛門が
盗みに入ったと言う記述がある
この話は 昔 父の次弟からも聞いていたが
若い時は日本左衛門なんて興味がなかった
歌舞伎や小説のモデルにもなった日本左衛門とは?
図書館へ行って調べてみた
郷土史家が著した日本左衛門騒動記を繰っていくと
江戸町奉行に出した訴状の中に
十四人の被害者名があり
確かに先祖の名 持広村 百姓 小右衛門
金三十両並びに衣類三十品あまりと
盗まれた金品が出ている
事実だったと確かめられた
中には百両、千両単位の額や
刀剣類の被害もあった
田舎でも財をなしていた家が
あったことが窺える
筆頭に記された大池村 百姓 宗右衛門の被害は
金千両と衣類六十品あまり
江戸の奉行所に直接訴えたのには理由があった
領主 小笠原能登守が 宗右衛門の訴えを
取り上げなかったゆえである
宗右衛門がそれまでの度重なる金子御用に
腹を立て断ったことを
能登守は 根に持っていたのだという
宗右衛門は岳父である向笠村の百姓 三右衛門に相談
三右衛門の被害は
金十一両 並びに質物取り置き候分 衣類百二十品あまり
三右衛門は組頭と江戸に赴き
延享三年(1746年)九月三日奉行に出訴
翌日 月番本田紀伊守に 昼四つに召し出され
夜八つまで詮議
さらに盗賊改方 徳山五兵衛とも対面
十一日 捕り手五人と共に国元へ出立
盗賊改方 徳山五兵衛の組が九月二十日夜
見付宿の賭場を急襲する
このあたりの奉行所と盗賊改方の
動きは素早い
が 日本左衛門は逃亡
見付宿から秋葉山、そして西国へ
女を連れて物見遊山のような旅だった
四国へも渡り金刀比羅宮へ詣でた後
現在の下関あたりまで行ったようだ
新聞も写真もない時代
手配書が回るまで
誰も日本左衛門の顔を知らなかった
京都所司代へ自首して出たのは
捕縛された手下が拷問を受けていると
噂に聞いたからだと言う
このあたりが後の世にもてはやされた人柄か
歌舞伎や小説では
「盗みはすれども非道はせじ」という台詞があるが
押し入った先で
一味の者には非道があったという
延享四年正月京都所司代へ自首
三月十一日 江戸市中引き回しの上
牢内にて処刑
日本左衛門 またの名を尾張重右衛門
本名 浜嶋庄兵衛 桑名藩士の子
その性 俊敏で豪胆
東海道筋を荒らし回り
配下の者 四、五十人
処刑の後 首は見付宿に送られ
宿場の外れ 遠州鈴ヶ森に晒された
享年二十九歳
掛川藩主 小笠原能登守は
延享三年九月二十五日 奥州棚倉へ転封
翌四年三月六日 日本左衛門召し捕りについて
不行き届きで 譴責一ヶ月
また 被害に遭っても
後難を恐れ 届け出なかった人々にも
お叱りがあったという
持広村の小右衛門は不都合な事にも
口をつぐむ人間ではなかった
*「遠州見付宿日本左衛門騒動記注釈」〔渥美登良男〕を参考にしました。