オレンジの帯 温泉郷
狭い社宅の
部屋の隅に転がっていた
小さな辞書
ビニールカバーの下に
オレンジ色の帯
好きな色
開けてみると
1頁に簡体字が
ひとつずつ
いつもどこかに
転がっていた
本棚にあることは稀で
床にあったり
畳にあったり
テレビの近くにあったり
読めもしないのに
本を眺めていても
父は 何も言わなかった
父が手に取るところも
見たことがなかった
ただ 転がっていた
父は大学で
中国語を学んだことがあったと
ずいぶんしてから
母から聞かされた
父が中国語を話すところなど
見たこともない
なのに
あのオレンジ帯の辞書は
ずっと部屋に転がっていた
借金
降格
挫折
母とのいさかい
それでも
嫌いにならなかった父の
突然の失踪……
あれから
ひどく長い時間が経った
ひどく長い空白が続く
気が付けば今
わたしは下手な中国語を使う
部屋に転がされていた辞書は
何か話したがっていた
ずっと忘れていた
あのオレンジ帯
開いたページには
ところどころ
鉛筆の書き込み
そのころ わたしは
書き込みのあるページを
探しては 繰っていた……
なぜ
そんなことを
今になって思い出したのだろう