評、5/27~5/30、ご投稿分、その1。 島 秀生
お待たせしております。
残り6作も、ほとんどできているので、
明日の朝に。
●長森 正樹さん「祈り」
戦争を始める者は理念で始める(今回も非ナチ化とか言ってます)のだけど、実際、戦闘が始まると人の命がどんどん亡くなっていく。すると肉親を殺された者が黙っていられるわけはないから、私怨が広がり、やり返すことになる。戦闘の規模が大きくなれば大きくなるほど、長期化すれば長期化するほど、私怨はどんどん広がっていって、私怨同士が泥沼になり、停戦はますます困難になっていく。そして戦争を始めた人は、いつだって一番安全なところにいるのです。こんなバカな話はない。戦争を始める者、始めた者こそが、一番先に最前線に行って戦ってこいと思う。だけど、そんなやつに限って、いつも一番安全なところにいるんですよ。
プーチン政権が変われば、軍を引く可能性があるので、それが一番近道に見えるんですけどね、ロシア国内も旧東ドイツみたいな言論統制がしかれていて、なかなか動きません。今は一刻も早い停戦を祈るばかりです。
戦闘がやめば、その時こそ日本の出番。ウクライナの復興に積極的に尽力してほしいと思う。鉄道やインフラの整備、東南アジアで実績ある地雷・不発弾の撤去、そして戦車でなくトラクターを支援することこそ、日本の役目のような気がします。
長森さんの詩を読むと、ジョン・レノンのイマジンが流れるようでした。
また書いて下さい。初回ですので、感想のみになります。
●おおたにあかりさん「しんぞう」
うむ、おもしろい着眼から、よく突っ込んで書いてます。
おかあさんからなにをしてるのと聞かれたり、おかあさんよりいそがしいと比較してみたりするのも、子供らしくておもしろいです。
そして意外にもテーマは理科系。心臓の不思議を子供の視点で描いています。
終連だけイマイチなんで、終連に変えて、次の3連でどうでしょう?
だまっててあげるよ
ひみつにするよ
だからときどき
わるくちくらい言って
いいからね
しんぞうのはなしを
きいている
ありがとう
ぼくのしんぞう
しんぞうは
いそがしい
こんな感じで着地にしてはどうかな? と思います。
おもしろい着眼でした。秀作にしましょう。
●荻座利守さん「向日葵の花色」
これ、ヒマワリがウクライナを暗喩してるようで、途中までおもしろく読んだんですが、ラストの2連、なんで「私は」に帰ってきちゃったんでしょう??? それがガッカリでしたね。 このままウクライナとのダブルイメージで進み、ウクライナへのエールで着地させればいいのにと思ったんですけどね。
「私」に帰ってきちゃうと、なんだか話全体が、商店街のシャッター通りに書かれてる絵を見てた、みたいなことになって、スケールダウンしてしまいました。
せっかく途中まで良かったんで、うしろ3分の1くらい、私が言った構想で、まとめ直されたらどうかな?と思いました。ちょっともったいないです。
でもまあ、秀作はアリです。
失われた
あえかな色の欠片は
深い深い
光の届かぬ未来の底に
音もなく降り積もってゆく
ここ、とてもステキだったです。
●妻咲邦香さん「ジェリービーンズ」
少し意識して書かれてるかもしれないけど、これはセンテンスの主語が明快で、登場人物が二人ということもあるけれど、キャラが立ってて、キャラ同士の関係性も明快です。やはり創作性の高いものの方が、却って脈絡がしゃんとしてる気がする。もしかしたら今回はそのへんを気合い入れたのかもしれないけれど(逆にほかのところはぐっと抑えたかもしれないけれど)。
「ジェリービーンズを知らないのか?」から「ならわかるでしょう、その美味しさを」までの話のスライド具合がおもしろいです。まったく理屈になっていない理屈で、こちらを説き伏せようとするかの感で、このあたりのセリフ展開は上手です。
うむ、今回はこのままでOKですね。終連もひと味出しました。秀作を。
(ものすごく余談ですが、私もたまーに、ゼリービーンズが食べたくなるメンドクサイ客の一人です。あれ、しょっちゅうはいらないんだけど、なんでかたまーに(年に一、二度)食べたくなるんだよね。たぶん、チョコミント好きな人間は、ゼリービーンズも好きだと思います。あっちが元祖みたいなもんですから)
ところでこれ、いろんな菓子を買いに来る客を、シリーズ化するのもおもしろいと思う(同じ菓子でも食べられ方が違うケースもアリだし、現実にはあり得ないような空想の菓子を買いに来る客もアリ)。妻咲さんなら、何作かシリーズで書けそうに思うよ。おもしろいと思う。
●キングウルフさん「理解されない」
ちょおっっっと、範囲が広すぎますねえー
どこで、どういう場面で、こうなったかのヒントがまるでないので、どういう場面を想定してこの言葉の意味を噛み締めたらいいのか、というのがわからない。
わからないというか、あっちもこっちもいくらでも場を想定しうるので、無限大に範囲広すぎて、どういう場面の元に、この言葉が発せられてるのか、読者側として選び出しようがないです。
具体的にいうと、たとえば3連構成の詩にして、終連に今の詩を持ってきたら良い。
でもって前の1連と2連は、そこに至るアプローチです。どんな場所で、どんな場面・時に、そうなったか、映像的なヒントとなるものを、1~2連で書いてみて下さい。
結論だけ書くのでなく、最初からか、途中からか、書く、ということです。アプローチがあるから、結論が生きるのです。結論だけで何か伝えようとするのは、元来ムリがあります。
今回は一歩前です。でも、
理由の無い涙は
ムダですか
このフレーズはステキだったです。
●埼玉のさっちゃんさん「殻」
最近どういう詩を読まれてるのかわかりませんが、これ、前3分の1くらいは、ユーモアを入れる詩人の書き方に思えます。ユーモアで始めて、ウイットで終わるタイプの詩(たとえば初期の高階己一さんとか)に見える。そういうタイプの詩の場合に、「自分自身の成長の証に」なんて終行はまず来ないですね。
なんていうか前の方の趣と、終行の趣が、合ってないんですよね。
卵の殻を一枚ずつ剥いてゆく
薄皮まで丁寧に剥いでゆく
それは
新たな自身の誕生か
それとも
めくるめく出逢いが待っているのか
出逢うべくして出逢う
出逢えなくても出逢う
全ては繋がっている
理由もある
時の狭間を旅して戻ると
タマゴサンドとコーヒーができあがっている
はたして探し物は見つかるか
脱ぎ捨てた殻を土に置いてみる
これ、前3分の1からすると、本当はこういうふうに着地する詩でしょうね。
最近読んでいるであろう詩の読解が、まだちゃんとできてないと思います。
狙いはとてもおもしろいとこ突いてるんですが、あとの組み立てを理解してないから、間違えた方向に行っちゃってるの感ですね。
うーーん、まあなんでもしばらく取り組んでみることです。こだわり続ければ、何か生まれますから。一歩前です。
●西条紗夜さん「戦場の子」
うーーん、端的にいいますが、「(物事)~は、~だ」風に書くのは、論調の書き方になるので、論で書くと、反論されたら終わってしまいますよ。
論には、当然、反論が来る。反論された時に、この詩は耐えられるのか、詩として残るものがあるのかってことになってしまいます。
論だけで詩にできる人もいるにはいますが、そういう人って、物凄く卓越した思考力と見識を兼ね備えた人ですよ。ちょっとやそっとで反論されないだけのものを書ける人だけが、論で書けるのです。
私だって論をメインで詩は書かない。一般人のアタマでは到底その域に行けませんからね。
論で書くというのは、そういうことですから、「これはこうだ」「これはこういうものだ」的な、あまり大上段に構えた書き方はされない方がいいと思いますよ。論で書いたものは、反論で否定されたら終わりますから。
一方、「私はその時こう感じた」「それは私にとってはこういう気持ちだった」的な、折々の個人の感情や感慨の部分、前後の事情を含めた個人的な物語メインで書けば、
そもそも個人がどう思うかどう感じるか「気持ち」というのは個人の自由ですから、否定されません。「論」に対しては「論」で否定されますが、個人の「感情」は自由ですので否定されません。
なので、書くスタンスを、そういう風に変えられた方がいいと思います。
第一に、物事を主語にして書くのでなく、「私(自分)は」を主語にして書くこと(実際に「私は」を書かなくても、「私は」が主語のつもりで書くということ)。また、結論が大事ではなく、前後の自分の感慨こそが大事と思って書いて下さい。
次は、いまお話したように、スタンスを変えて書いてみて下さい。
私は初回ですので、感想のみとなります。