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スレッドNo.5765

5/27〜5/29ご投稿分、感想と評です  荻座利守

5/27〜5/29ご投稿分の感想と評です。宜しくお願い致します。
尚、それぞれの作者の方々が伝えたかったこととは、異なった捉え方をしているかもしれませんが、その場合はそのような受け取り方もあるのだと思っていただければ幸いです。

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5/27 「美味しい公園」 相野零次さん

思わず笑みを浮かべてしまいそうな詩ですね。
世界中の公園のブランコに枕を載せる、という発想がとても独創的で面白いです。
また、その上で恋人ごっこについて、「アツアツ」ではなく「アチチ」という表現を用いているところも、ヤケドしそうなくらいの熱さがイメージできて効果的だと思います。
そして、さらにそこにソフトクリームをのせて、ストロベリーソースをかけることが、恋人ごっこの甘美さを視覚的に表現しています。
その一方、ソフトクリームはなるべく冷たいやつがいいというところは、熱くなりすぎる恋人ごっこに水を差すような、どこかアイロニカルな感じもします。
個人的な感想としては、この作品は甘美で幻想的なイメージを表したもののような気がすると同時に、「恋人」ではなく「恋人ごっこをする」というところから、あるメッセージを含んだもののようにも思えます。それは、意見や立場が異なっても反発や対立をせずに相手を尊重する、言わば「和して同ぜず」のようなことを表しているのではないか、ということです。
それに加えて、冒頭に「世界中の公園のブランコに」とあることは、分断や対立が至るところに見られる現代の世界に対して、対話や融和を目指してほしい、ということを表しているのではないかと、そんなふうにも受け取れました。
でもこの作品が、心に湧いたイメージを表したものなのか、世界へのメッセージを含めたものなのか、私にははっきりとはわかりません。ですから個人的には、あと少しだけ何らかの描写(公園の情景や作者の視点など)があればいいなと、そんなふうに感じました。
それでも独創的な表現の面白い作品だと思います。
評については、今回は佳作一歩手前としたいと思います。


5/27 「ラプンツェル 〜フォルテ(悪意を強く)。それから足音のクレッシェンド〜」 松本福広さん

幻想的な物語風の詩ですね。孤独を描くのにラプンツェルという題材を採ったのは、多くの人になじみやすく、いい選択だと感じました。
冒頭の、あらゆる童話や文学が交錯するパラレルワールドという設定が新鮮ですね。どのような物語が展開されるのか、読み手の期待が膨らみます。
まず感じたのは、3連目の表現の美しさです。「可憐な花びら」「白い雪」「てんとう虫」「夏の強い日差し」、それぞれが上手く美しく表現されています。
そしてその後には、人間の心の醜さが表されています。そこにガムという現代的なものや、羅生門の老婆などが出てくるところが、個人的にはやや突飛な感じがしましたが、そこがパラレルワールドが持つ意外性の面白さなのかとも思いました。
また、後半の「誰かの願い」を表した3つの連も美しいですね。特に「亜麻色にきらめく蜘蛛の糸」「誰かの希求の糸であるかのよう」という表現が秀逸です。
ただ、この作品で気になった点があります。それは物語が一度終わっている点です。ラプンツェルが外の世界を知りたいと願わなくなり、ひとつの可能性が消えたところで物語が終わり、そこからまた「誰かの願い」として始まっています。
初めは、ラプンツェルが希望を失ったまま終わってしまうのは少々寂しいので、一旦仕切ることなくこのまま続けたほうがいいのではないか、とも思いました。しかしそこで、「誰かの願い」として仕切り直した作者の意図は何か、ということを考えてみました。
これはあくまでも推測なのですが、たとえ童話や文学が交錯するパラレルワールドであっても、私たちが生きている現実の世界とは、決して無関係ではないということ。その厳しさや醜さが、「ここからは誰かの願いを」という形で表されているのではないでしょうか。
全体的に斬新な発想と美しい表現とを兼ね備えた、意欲的な作品との印象を受けました。また、タイトルにある「足音のクレッシェンド」が、希望を想わせて良いですね。
評については、佳作としたいと思います。


5/27 「ドタキャン」 上原有栖さん

何とも言えない、切なさと悔しさが伝わってくる詩ですね。一緒に観に行く予定だった映画がドタキャンされたら、そこからその日の気分は最低になってしまいそうです。
詩の構成として、時系列通りに書かれるのではなく、まずは
「一緒に食べようと思っていた
 映画館のポップコーンとメロンソーダが
 400円のコンビニスイーツに変わった」
という表現から始まるところが巧みだと思います。
そして、ところどころ「***」で区切られているところが、感情の奔流に思考が分断される様子が上手く表されていると感じました。
ただ、(以下 回想)と(詩冒頭の場面へ戻る)という表記については、なくても読み手はたぶんわかると思います。この二つは削ったほうが、説明的な部分がなくなってよりスッキリすると思います。
また、これは個人的な印象なのですが、この作品は感情がストレートに書かれているので読みやすいのですが、その分、詩としての表現の美しさや面白さがやや不足しているようにも感じられます。
これは蛇足かもしれませんが、何かを表現するとき、その何かをよく観察することが重要です。自分の置かれた状況や自分自身の感情を表現するならば、それらから自分自身を切り離して、距離をおいて観察することが大切だと思います。
例えば、相手が電話越しにボソボソ喋ることについては、一旦距離をおいて観察して、「芋虫の呟きみたいな」とか「モグラのしゃっくりのような」などといった、相手を揶揄するような譬喩を入れるのもひとつの方法でしょう。
そして、ドタキャンされて悔しかったり悲しかったりする理由が、ただ単に、映画を観られないということではなく、大切な人との時間を奪われたことや、相手が自分より仕事を優先させたことならば、そのことに対してどのように感じたのか、その感じは何に喩えられるのか、といったことを語ってみたりしてもいいかな、という気もします。
でも、冒頭の表現や全体の構成はとてもいいので、その後の、ひとつひとつの表現に磨きをかければ、もっといい詩になると思います。
評については、佳作二歩手前としたいと思います。


5/28 「刹那」 喜太郎さん

まず、非常に繊細な感覚で書かれた詩という印象を受けました。
1連目で、「君」を悲しませたくないが故に、自分のことを忘れてくださいと言うところに、繊細な優しさを感じます。
そして2連目、コップの水に垂らされた一滴の血についての「まるで泳ぐような君の雫」という表現は秀逸です。ただその後に、その血の混ざった水を飲もうとすることに関しでは、読み手の中では不快に感じる人と、繊細な愛情を感じる人とに分かれるのではないかと思います。
しかし正直なところ、私はここから先、この詩について感想や評を書くことは難しいと感じました。
リストカットに関しては現実に苦しんでいる人々がいて、それについての周囲の無理解も存在しているようです(https://www.nippon-foundation.or.jp/journal/2023/91367/suicide 参照)。私はリストカットの経験はありませんし、私の身近にもそのような人はいません。つまり私自身も「周囲の無理解」の中にいる人間なのです。さらに喜太郎さんがどのようなバックグラウンドをお持ちなのかも存じ上げません。そのような状況では安易なことは書けません。
ならば、詩の内容ではなく表現方法などについてのみ書けばいいかなとも一瞬思いましたが、詩の表現がその内容と無関係であり得るとも思えません。
今回の題材は非常にデリケートなものでもあるように感じます。この題材の詩については、芸術としての完成度というだけでなく、あるいはそれ以上に、心理療法としての芸術療法(詩歌療法)のような側面(あるいは可能性?)をも持っているように思われます。
そのような詩に関しては、佳作等の評価はそぐわないと思います。ですから今回は評は見送らせていただきます。申し訳ありません。
でも、繊細な優しさと愛情を感じさせる詩であることは確かだと思います。


5/28 「ジビエの哲学」 荒木章太郎さん

やや抽象性の高い詩のように感じましたが、現代の世界について描いた詩と読み取りました。
小さくなったパイの取り合いと化してしまったグローバリズムの中で、不均衡な分配が大きな格差を生んでいる。自らの価値観や基準を強制し、広めようとすることから分断と対立が生じ、まるで野生動物が互いに喰い合うよう。表向きはきれいに取り繕っていても、その内側はひどいものだ。
でもそれは、上の階層にいる指導者たちの誘導によるものだった。大まかにはこんな感じに受け取りました。
一見、わかりにくいように感じましたが、よく読み込んでみると、全体的になかなか味のあるメタファーの使い方ですね。特に2連目と5連目と最終連の表現が独特で面白いと感じました。
そして、野生動物のようになって互いに喰い合っている状況を「ジビエ」という言葉で表し、相手を肉のようにしか見なくなっていることを示したのは秀逸だと思います。
ただ、これはなんとなくなんですが、全体的に勢い余っているような、突っ走っているような、そんな感じもしました。詩的な表現、独創的な表現をしようと思うあまり、メタファーがやや多用されすぎているようにも見えます。
ここは少し落ち着いて、一般的に分かりやすい表現もいくつか間に挟んで「緩急」をつけたほうが、独創的な表現がより引き立つのではないでしょうか。
でも、構成という点から見ても、要所要所で「格差社会だ」「まるで獣のようだ」「レシピのようだ」「契約社会だ」と、「〜だ」という音で締めてリズム感を出しているところも巧みだと思います。
評については悩むところなのですが、今回は佳作半歩手前、ということにしたいと思います。


5/29 「雨の中を歩く」 aristotles200さん

自然の美しさや荘厳さを、謙虚な視点から描いた作品ですね。
風雨や雷雨といった天候を好む人の話は何度か聞いたことがあります。また、リラックス・サウンドのアプリの多くには、雨や雷の音が入っています。それらの音は、人の心の根源的な部分に刻み込まれているものなのかもしれません。
詩の前半部では風雨や雷の中を歩く喜びが、簡潔な文体で描かれていて、テンポよく読めていいと思います。雷鳴に心が引き締まった感じが上手く表されています。
それから中盤に、ベートーヴェン、ピアノソナタ14番「月光」に触れ、その静かな旋律と雷雨とを対比させていることで、詩全体の流れを単調にせず、変化をもたせているところも巧みだと思います。
ここでベートーヴェンの「月光」を「静かさを、具象したかのような音楽」として対比的に表しているのであれば、(欲を言えば)それをもう少し膨らましてみてはどうでしょう。例えば、構成が確立されたソナタ形式に対して、雷や風の音を自由で即興的なトッカータに喩えて対比してみるとか、あるいは静謐で冷徹な月光と、不則で激情を想わせるような稲光とを、視覚的に対比するなどしてみるのも面白いかもしれません。
また、細かいことを言うようで申し訳ありませんが、各行の先頭にある「・」には何か特別な意味があるのでしょうか。個人的には、これはないほうがスッキリしていて読みやすいと思います。何か大きな意味がないようでしたら、削ったほうがいいのではないでしょうか。
でも後半で、自分がちっぽけな人間であることの不条理を感じ、大自然と一体になろうとするところには、禅や道教の思想が窺えて深みを感じます。そして嵐が過ぎた後の、「抜け殻になった私は一人、家に帰るのだ。」という結末は、大自然への思いの強さが表れていて秀逸だと思います。
評について今回はやや厳し目に、佳作半歩手前ということにしたいと思います。


5/29 「つながり」 津田古星さん

今回は初めてですので、感想のみとしたいと思います。
本との出逢いが思い出を蘇らせる、どこか切なくも仄かな温もりを感じさせる詩ですね。
1連目の、「睡眠導入剤変わりにでもなればと/連れ帰る」「素直に人間の善を信じたいわたしに/力をくれる本だ」というところが、個人的に共感できていいなと思いました。特に「人間の善を信じたい」ということは、現代社会に生きる多くの人々にとって必要とされている事柄のような気がします。
また、4連目の思い出を描いた部分の、「わたし達はお行儀良く/ちょっと相手と距離を置いて/話していたのかな」というところからは、なぜか心から打ち解けることができないもどかしさが、よく伝わってきます。さらにここには、心の奥底で傷つくことを恐れている繊細さも微かに窺われます。
そして5連目の「ふるさとの言葉を/本の中でじっくり味わう」というのは、充実した本との向き合い方のひとつですね。その巡り合わせからでしょうか、末尾の故郷の言葉での語りかけに、淡い希望が感じられます。
全体的に穏やかな感じでいい詩なのですが、少々厳しいことを言えば、その本を選んだ理由が、「素直に人間の善を信じたいわたし」に必要な本だからと書かれているのですが、そこから詩の流れが著者のプロフィールを経て、忘れたいと思っていた「彼」との思い出に移ってしまっています。つまり、「わたし」に力をくれるその本の内容が、触れられないままスルーされています。
この流れは若干不自然な感じがしないでもありません。もし、思い出をメインに書くのであれば、1連目の最後の3行は削ったほうがいいと思います。あるいは「人間の善を信じたい」ということが「わたし達はお行儀良く/ちょっと相手と距離を置いて」という思い出とリンクしているのであれば、それに関しての何らかの表現も必要でしょう。
でも、全体的に言葉の選択も自然で、読みやすい構成になっていると思います。
本との良い出逢いが思い出とつながる、暖かな雰囲気を感じせていただきました。


5/29 「おかえりなさい」 温泉郷さん

これは何かの病気と手術の体験を描いた詩なのでしょうか。やや抽象性が高いので、様々な受け取り方ができるような気がします。
まず、「わたしはいつもいるよ」という語りかけは、誰からのものなのでしょう。実際に身近にいる家族や友人か、過去に交流のあった思い出の人々か、あるいは内なる生命力のようなものか、いろいろと考えてしまします。
そして、その言葉が少しずつ遠ざかっていったこと、少しずつ傷つき悲しんでいたこと、そのことに気づかなかったこととはどういうことでしょうか。病気の苦しみのために、周囲に気を配れなくなったのでしょうか、過去の記憶があやふやになってしまったことでしょうか、あるいは生命力が衰えてきたことでしょうか。
それから、手術(おそらく?)が終わってこちら側にまた帰ってきたとき、「おかえりなさい」の一言を本当は聞きたかったということは、意識の表層では諦めかけていたということでしょうか。
個人的な印象としては、4連目がこの詩の肝(中核)をなしていると思うのですが、その声が何故少しずつ傷つき悲しんでいたのかが、あまりよく伝わってきません。そのため感情移入がややしづらくなっています。
作者である温泉郷さんがどのようなイメージをお持ちなのかよくわからないので、「こういう言葉を入れたほうがいい」といった具体的な例を挙げられないのですが、何らかの表現を加えたほうが読み手に与えるインパクトがより強くなると思います(その代わり受け取り方の幅は狭まりますが)。ただ、あまり詳細に書くと説明的になってしまい、詩としての美しさが損なわれてしまう可能性もあります。その塩梅はなかなか難しいところであるとは思います。
でも8連目の「時間のトンネルをくぐる」という表現が、帰ってきたという感覚を引き立てて、タイトルでもある「おかえりなさい」という一言を支え、高く掲げていて、ここは巧みだと感じます。
評については、佳作一歩手前ということにしたいと思います。


5/29 「絶対やってやる!」 じじいじじいさん

今回は初めてですので、感想のみとしたいと思います。
高校時代の思い出のひとコマを描いた詩のようですね。大切な思い出のように感じられます。
まず1連目の「くそ!なんでだよ!」「なんで アイツなんだよ!」という思いは、高校だけでなく社会に出てからも、ずっと自分の心につきまとうものでしょう。人間が普遍的に持つ「嫉妬」という感情です。そして2連目に描かれている、チャンスを得てもそれを活かせない、もどかしさや不甲斐なさというのも、社会の中で広く観られることでしょう。
そして、親友が「俺」 を ビンタし、胸ぐらを掴んで怒鳴ったのは、そんな負の感情を振り払うためだったのでしょう。ほんとうに良い親友ですね。
さらに、気がついたら部員の皆んなが集まって「俺」 を支えてくれている。とても美しい場面です。
この詩は甲子園出場を心に誓うところで終わったていて、実際に出場したかどうかは描かれていません。それはおそらく、目標達成することそのものよりも、それに向けて互いに助け合いながら、諦めずに努力することの大切さを訴えたかったからなのでしょう(無論、目標を達成することも大切です)。
ただひとつ、4連目で親友にビンタされる前に、「どうしたらいいかわかんないよ」という言葉がありますが、これだけだと諦めかけているということが読み手にやや伝わりにくいと思います。あと一つが二つ、「もうダメだ」とか「やっぱりムリだ」みたいな、諦めかけていることがわかりやすい言葉を入れたほうがより効果的な気がします。
今、世の中では、運動部の指導により自ら命を断つというようなことが報道されています。個人的な印象ですが、そこには心の支えの欠如があるような気がします。ですからこのような詩においても、タイトルが示すような諦めない心も大切ですが、それと同時に「互いに支え合うこと」の大切さを強調してもいいかもしれません。それら二つのことが、言わば車の両輪であるような、そんな表現があってもいいかなと、そんなふうにも思いました。
でもこれは、社会の中で生きてゆくのに大切なことを伝えている詩だと思います。


5/29 「床屋」 樺里ゆうさん

日常の中にある、ちょっとした清々しさを描いた詩ですね。「床屋」という題材ですが、千円カットの床屋さんというところがいいと思います。千円カットですから時間にして約10分程度でしょうか、その短い間の様子を描いているところが面白いと感じました。
理容師さんが座る椅子とはキャスター付きのスツールなのしょう。「ぐるんと客席の周りを移動しながら」という表現はその情景をイメージしやすいですね。
その次の連にある、鋏の音を「サキサキ」と表現したところは巧みだと思います。理容師さんの手際の良さがよく伝わってきます。
5連目のと6連目の、「理容師は昔 医者の役目も果たしていたと/どこかで聞いたことがある」とか「そういえば床屋って/なんで床屋っていうんだろうか」とかいった、あまり脈絡のない考えが頭に浮かぶのも、髪を切ってもらっている間によくあることで、実感が持てます。
そして8連目も、床屋で散髪した後の清々しさを上手く表しています。
ただ、これは個人的な好みに類することなのかもしれないのですが、3連目で「サキサキ」という効果的な擬音語を用いたり、8連目と9連目ですがすがしさを表していてたりしているので、その間にも思考ではなく感覚的な表現を入れたほうがいいかなとも思いました。例えば、ケープをかすめて落ちる切られた髪、店内のBGMや他の人の話し声、ドライヤーなど鋏以外の音、細かい櫛を入れられた時の頭皮の感覚、鋏の冷たい触感、照明や窓から入る光の具合、整髪料などの様々な匂いといった、感覚的な描写を入れたほうが、日常の中に潜む新鮮さを感じられるような気もします。
でも全体的に、約10分程の間の情景や思考、気分などが上手くまとめられて書かれていると思います。
評については、佳作半歩手前ということにしたいと思います。


5/29 「真っ黒な手とそれぞれの条件」 人と庸さん

今回は初めてですので、感想のみとしたいと思います。
人とは他者に、あまりに多くのものを求めすぎる存在なのでしょうか。この作品を拝読して、そんなことを思いました。
まず1連目の表現が秀逸ですね。太陽が目線を人と同じぐらいに下げて、人と見つめ合ってるという情景は、とても美しいと思います。
そしてその時間帯には、とってもやさしい絵が描ける、というのもいいですね。
しかしその後の「がしゃん」という音は、人間関係の不調からくる、心の中の音のように感じられます。また、はずれたものを直そうとして手を真っ黒しにした人たちは、その人間関係をなんとか修復しようとしている人たちで、さらに手首まで真っ黒にした修理屋さんとは、多くの人たちから相談を受けるカウンセラーのような人のことでしょうか。
そして、その人たちにはまだ世界がきれいに見えてるということや、「わたし」の手が真っ黒じゃなくなったのは、きれいな色の時間を越えて、暗闇の中では黒い手は黒く見えなくなったから、というのはとても悲観的な世界観のような感じがします。
「がしゃん」という音がしている世界の中で、人々が他者から求められる役割や在り方から解放されるのは、太陽が目線を人と同じぐらいに下げて人と見つめ合う、ほんの一時だけというのも、どこかシニカルな印象を受けます。
3連目の「とってもやさしい絵が描けるんだ」という仄かな希望も、末尾の「がしゃん」という音にあえなく潰されてしまう、そんな絶望的なディストピアのイメージが湧いてきて、冒頭の美しい表現から突き落とされたような感じもします。
でも、真っ黒い手というメタファーや、「わたしが笑いかけたら笑い返してほしいんです」「ぼくが話しかけたら返事をしてほしいんです」といった言葉を、象徴的に用いているところ、そして構成における「※」の用い方などは巧みだと思います。ただ個人的には、もう少し希望が欲しいなと、そんなふうに感じました。(あくまでも個人的な願いですね。)

編集・削除(編集済: 2025年05月31日 13:51)

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