僕には藝術がわからないんだ /飯干猟作
《僕には藝術がわからないんだ》
僕は詩を書く
昔々は絵も描いた
美術展には現在も行く
絵が好きだ
フェイスブックの誌面で
OK氏と知り合ってからは
写真も観るようになった
音楽はクラシックからロックまで
そして初音ミクまで聴く
歌姫である初音ミクは
中古でCDはほぼ全て買い集めて
そして約4年間というもの
初音ミク以外は聴かない日が続いた
でも、巡音ルカが実は好きだ
(♪ミックミックにしてやんよ~~~っていい度胸してるわね?)
僕は荘厳な絵画からポップアートまで
好きなものは好きになった
また荘厳なクラシックから初音ミクや巡音ルカまで
好きなものは好きだ
特に僕の気持ちを
ハイにハイにハイにしてくれるなら
なんだって聴いてきたし
先は短くてもこれからも聴くだろう
ところが僕には
藝術がどうしてもわからないんだ
自分の好きなものだけを
自分の周りに集めただけでいたから
(大友克洋氏の劇画「童夢」の悪役主人公のジジイのようだ)
キライなものを勉強といって
観たり聴いたりなんてしたコトがない
ただヒトに薦められて聴いて
ハイにハイにハイになってしまったなら
話はまったく別である
そして言うにコトかいて藝術だと?
藝術としての絵画、写真、音楽なんかそんなもんは
さっぱりわからん
詩にいたっては自分で書くくせに
なんにもわからない
なぜ詩が好きかなんて
考えたコトなんてないし
説明しようとしたコトがない
と、言うコトは必然的に
文学なんてまるでわからない
文学?
僕にはなんもわかりましぇ~~ん
文学なんて好きな人が語ってればいいんである
僕は先が短いからつまらんコトで足踏みしたくない
本当に藝術がさっぱりわからないんだ
わからないまま
そのまま老いてしまった
だから僕は自分のコトを
藝術不感症なのではないかと思っている
僕の中では
ただ好きなオンガクや絵や写真に囲まれていたいと
ず~~っと思ってきたワケだ
そして困ったコトに
そのまま老人になってしまったワケだ
寄る辺なき老人
ハイにハイにハイになってその末に
目覚めたら哀しい老人だった
実は今現在
こうしてスマホの画面をぽちぽちとして
書いているこの詩だって
藝術を意識したりして書いてなんかいない
ただ僕の身体からぽこぽこ湧き出す言葉
頭蓋の中からじゅわじゅわと溢れ出す言葉
ハイにハイにハイにしてくれる焔だ
そうした噴火のごとき言葉が書かせるんだ
昔から激しい影響を受けた作家がいる
詩人ではなくて小説家の大藪春彦氏である
彼が描く暴力と性行為と銃火器の表現が大好きだ
急上昇するジェット戦闘機のエンジンのように
アフターバナーを炊いて
股間から飛び出し脳ミソをぶち抜いて
宇宙へとブッ飛んでゆく僕である
ハイにハイにハイにしてくれる大藪春彦氏!
それを真似て消化して昇華して詩として描くのがとても大好きなのであった
さすがに性行為を大藪春彦氏風に剥き出しのままで書けば
詩軟派師であった僕は困るのだった
女の子が僕の詩に感動してセックスしてくれなくなるからだ
詩軟派師はまあ色々あって
まあやってはいけなかったのだろうが
まあ若き日の下半身は
まあそれはもう別人だったワケで
まあそのコトはまた別な物語
とにかく大藪春彦氏の小説が好きだった
いや
「野獣死すべし」という彼のデヴュー作(1958年)が
狂おしいほど好きなのだ
現在の僕のデモーニッシュな部分の原型は
大藪春彦氏の「野獣死すべし」だ
確かに筒井康隆氏や小松左京氏などの
日本SFの黎明期の作家群の作品には
ひどく影響を受けていたが
ハイにハイにハイにしてくれたのは
大藪春彦氏なのだ!
大藪春彦氏が日本の文学界からは
大きく外れていて
しかも氏も
そうした界隈には
何の魅力も感じていなかったのだろう
だが銃火器やライフルでの猟のコトなどを
ただただ
夜が明けるまで
同好の士である作家と語りあいたかったのではないか?
アラスカでのヘラジカ猟の際の
自分を極限においた生命のやり取りを
同じ作家として語りあいたい
その表現の一字一句について語りあいたい
そう心の奥で思っていたとしても
いったい何を恥じると言うのか?
ハイにハイにハイに登りつめるのだ
でも大藪春彦氏は一人立ち尽くしていた作家だった
大藪春彦氏は自身の作中人物のごとく
孤高のヒトであった
だが、その寂しさは痛いほど胸を突き上げる
僕は藝術がさっぱりわからないんだ
孤独な詩人が
作品に向かい合う時のように
独りポツンと
それが二、三人そろって
小さな呑み屋でおでんをつつき
静かに肩を寄せあって
語り合うのもいいんじゃないか?
あははははは
いわゆる一匹狼協同組合だな
それは何も産まないだろう
だが滋養には必ずなる
そう信じていいではないか?
肩を寄せ合おうがそれを夢見ようが
僕はアルコール依存症者だ
断酒中だから
(今年で断酒歴33年になる)
同じように酒を酌み交わせない
誠に残念無念
とは言えもう老人だからこのままでいいや、とも思う
僕は藝術がちっともわからないんだ
だがそれがどうした?
書きたいものを書く
描きたいものを描くだろう
思えば僕はあまり多くの詩人を知らない
精通してわずか一年足らずの
中学二年生の時に読んで
「僕は詩人になる!」と決意させたのが
カール・サンドバーグ氏作安藤一郎氏訳の
詩の「シカゴ」だ
今から思えば少年に成り立ての時に感動し
そしてその感動を誰かに書いて見せたいと思ったのだ
棟方志功氏の「わだばゴッホになる」を彷彿とさせるとは褒め過ぎだろう
でも僕は昔から褒めれば伸びるタイプなんである
ただ当時はスポ根時代だったから
伸びなかったねえ
そして十五、六歳の時に激しい同志感を持って読んだのが
藤森安和氏の詩集「十五才の異常者」だ
もちろん裸で走りながらの「ユリイカ!」なんかでない
「その藝術を組み立てを知り味わいを共有しよう」なんてコトでもない
理解なんかどうでもいいんだ
同志感が巻き起こす高ぶりの風だ
そして
ハイにハイにハイにしてくれる速度感!
他に面白いと思った詩人はいるにはいる
草野心平氏は好きだ
(夜の蛙の合唱がハイにハイにハイにする魂! しかも最後には冬眠するんだぞ?)
厳密には詩人でないらしいが
僕にとっては詩人である稲垣足穂氏
彼の「一千一秒物語」には
どえらく影響をうけた時代がありました
中原中也氏は、でも過ぎ去る詩人だったなあ
そう言う詩人も考えればうらやましい
スペインの詩人にして劇作家のロルカは
父の親友が諳じていた詩人で
それで好きにはなったが
やはりコイツら欧州人は
大便が臭いと思ってしまうから
ちょっと距離を取ってしまう
他は知らない
たとえば詩集を古本で買っても
結局最後まで読めた試しがないのだ
詩ではないが
初音ミクだ!
初音ミクの歌詞を書いている
若者たちが大好きだ
ハイにハイにハイにしてくれる若者たちの熱!
その歌声と歌詞は
同じ若者だけでなく
老人の僕の心をも撃ち抜くからだ
やはり若者の剥き出しの感性は素晴らしい
たとえ頼りなくぷるぷる震えるものであっても、だ
詩ィだ
詩ィなのだ
詩ing
詩ィか?
詩ィでなくてなんだ?
詩ィ詩ィと赤ん坊の排尿を促してどうする?
僕の作品は
詩ィと名づけたから詩ィだ
ハイにハイにハイにしてくれる詩ィ
(僕は大阪人だから「詩」は「詩ィ」と発音する。共通語で書くのは多くの人と「分かち合いたい」から。おっとっと「標準語」と言って鼻高々な東京人、それ、ただの幻想ですから)
僕が詩と名付けたから詩以外のなにものでもない
詩でなきゃ詩でないなにか
キリリでキルルでハララななにかであっても
ちィ~~っともかまわない
(昔の角川文庫の「谷川俊太郎詩集」を引っ張り出して答え合わせ。文庫の背の糊がさすがに弱ってしまっていて、本の前半がバラけてしまう。その文庫の表3に「1975年6月25日アベノ旭屋書店にて」の書き文字あり。ちょうど50年前!)
いっそのコト
ゆあーんゆよーんゆやゆよんと
オノマトペでだけで名づけてヨシだ
(これも角川文庫の「中原中也詩集」引っ張り出して答え合わせ。記憶が正解の時の嬉しさよ!)
なんだっていい
書きたいものを書く
けれどふと
自分の立脚点がわからなくなってしまうが
そんなコトはしょっちゅうだ
確かすぐソコだったはずだがな?
「僕はどこ?」
ああ! この出だしは中三の時の僕の詩ではないか!
この沸き上がる寂しさだ
何十年をも俯瞰する老人の寂しさ
夜
深夜に書く
詩ィを書く
ノオトにボールペンを突き立てるようにして書く
あるいは
スマホの画面割れよとばかりに親指を叩き上げて書く
夜中に書き上げる
そして
最初の読者は僕だ
なんたる光栄!
突き抜ける快感!
ハイにハイにハイにどこまでも駆け抜けてゆく白馬!
たとえ翌朝、再読して不快に打ち震えようと
何ら問題はない
僕の詩の立脚点はここだ
すぐ傍だったのね~~
ただの自己満足?
おお、自己満足上等ではないか!
なんだって? それは自慰だ、だと?
自慰のいったいどこが悪いんだ?
表へ出ろ!
そして僕は大藪春彦氏が掲げた
松明(たいまつ)の明かりの中を歩くだろう
果てしない弾丸のやり取りが続いている
僕は禍々しい悪鬼のごとく次第に闇に沈んでゆく
それでも
僕の左手には火を吹くベレッタ92F
右手にはボールペンだ
僕には藝術がさっぱりわからない
だが今の所、わからなくて困るコトはない
きっと今晩、寝て死なないかぎり
明日からも生きていくだろう
だが明日死ぬとしても
今現在それで困るコトはない
ハイにハイにハイに死なないかぎり
ハイにハイにハイにゆく
ハイにハイにハイにゆくのだ!
僕には藝術がこれっぽちもわからないんだ
だから藝術は照明のカクテル光線を浴びなから
ばたばたばたと明後日の方向へ飛ぶだろう
僕は詩と一緒に今、旅が出来ればそれで充分だ