7/22〜7/24 ご投稿分 感想と評です 荻座利守
7/22〜7/24ご投稿分の感想と評です。宜しくお願い致します。
なお、作者の方々が伝えたかったこととは異なった捉え方をしているかもしれませんが、その場合はそのような受け取り方もあるのだと思っていただければ幸いです。
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7/22 「虚無主義にはなりたくない」 荒木章太郎さん
お寺のお子さんが、親御さんとは違う道を進み、ざざまな経験を経て、実家のお寺を継いだり、似たような職についたりする、といった話をいくつか聞いたことがあります。血は争えないということでしょうか、それとも、幼い頃の成育環境の影響でしょうか。
それはともかく、今回の作品ですが、全体的に以前の突っ走ったような感じが少し抑えられて、やや落ち着いた感じになったような印象を受けました。
まず1連目の「顔の右半分を吊り上げて/ニヒニヒと笑うようになった」という表現が独特で面白いです。また、ワニの剥製の逃亡とネットでの聖地の噂は、現代の都市伝説の発生の経緯を現しているようで、これも面白いです。
ここで重要なのは「聖なるものは/人の噂が作り出すもの」ということなのでしょう。それは聖なるものを人々が求めていることの現れなのだと思います。そしてそのことが「ニヒリズムに陥りそうになった俺は」「まだ見たことのない神に祈る」ということに繋がるのでしょう。
さらにその背景には、工学や自然科学の世界に入っても、ニヒリズムの克服にはつながらなかった、ということがあるとも受け取れます。
そして最終連で、「四葉のクローバー」という、語り手がまだ希望を捨てていないことの象徴とも思えるものがでてくるのが良いですね。
ただやはり、8連目と11連目と12連目の隠喩と、全体の流れとの接点が、いまひとつよくわかりません。
「本物のワニを焼いている」、地下倉庫の下の「稲やレタスや人工肉」、「工夫してきた親父たち」、これらが何を意味しているのでしょう。
自然をコントロールし、聖なるものを白日のもとに曝そうとする人間の浅知恵を「親父たち」と表しているのでしょうか。
このあたりに何か、読み手のための「補助線」になるような部分が欲しいような気もします。
それでも最終連の表現が、うまく抑えが効いていて、詩全体を美しく締めています。
評については、佳作半歩手前とさせていただきます。
7/23 「鱒」 上原有栖さん
どこか内省的な印象を受ける作品ですね。特に1連目の括弧書きの部分は、自分自身との会話のように受け取れます。そうであるならば、タイトルの「鱒」とは現実に存在する魚としての「鱒」ではなく、自分の内面にある何かの象徴であると思われます。それが「心ヶ淵」という淵の名前に表されているのでしょう。
ただ、この「鱒」や「心ヶ淵」が何を象徴しているのか判断するのは、とても難しく感じました。「心ヶ淵」については1連目の「(恥じらいを知った頃から)」というところがヒントになっているような気もします。そして「鱒」については、最終連がヒントになっいるなかなとも感じられます。
しかし、それらについて「自我意識」とか「生命力」とかいった言葉がフッと頭に浮かんだのですが、そんな言葉で表してしまうと途端に陳腐になってしまいます。強いて言えば、はっきりと言語化できないからこそ詩の題材となり得た、詩として表現できたもの、ということになるのでしょうか。
全体的な表現については、抑えの効いた落ち着いたものとなっていて、秘密の場所である「心ヶ淵」という雰囲気に合っています。
特に3連目の、左端を一文字分開けた配置や、「大きな 鱒」や「美しい 鱒」といった、形容詞の後に一文字分空白を置いている表現が、鱒の存在感を表すのにとても効果的だと感じました。
ただ、5連目や最終連でも同様な、一文字分空白を置く表現を用いていますが、3連目の「大きな 鱒」「美しい 鱒」という表現を際立たせたいのであれば、5連目と最終連は普通の配置でもいいのではないかなとも思いました。
でもそれは些細なことであって、全体的に静謐で均整のとれた、美しい作品だと感じました。
評については、佳作としたいと思います。
7/23 「変換」 喜太郎さん
子供の頃は感じるままに動けたのに、大人になって様々な人間関係のしがらみに絡め取られて、心が勝手に言葉を変換してしまう。そんな悲しみや苦しみが丁寧に描かれていますね。
言葉を選んだり笑顔を作ったりすることに疲れるというところは、多くの人が共感することなのではないでしょうか。
そして、何も考えずに踏み出した右足を左足が追いかけてきたといった表現を用いて、それを、一歩踏み出すにも勇気が必要となっている現状につなげているのは巧みだと感じました。
それからその後の、「自分さえ我慢すればって」「見えないふりして心から視線を外す」「もう何度も繰り返すから勝手に動く薄笑い」「綺麗な人生なんて短いから輝くのかな?」といったところは、多くの人が抱えている思いを代弁しているかのようです。
さらに末尾の2行も、苦しみの切実さをうまく現していると感じました。
ただひとつ、タイトルが「変換」であるのに、本編では「変換」ということが、やや隅に追いやられているような印象を受けます。言葉の変換、そして真実と嘘との変換、それらの望まぬ変換、強いられる変換が、どのように心や魂に歪みや痛みをもたらすのか。そこのところを何らかの比喩や、擬音語、擬態語などを用いて表現したならば、その苦しみが読者により感覚的に伝わるのではないでしょうか。
でも最後にもう一つ感じたことは、こんなふうに自分の中の葛藤や醜さを表すということは、自分自身への誠実さの現れなのだろう、ということです。
評については、佳作一歩手前としたいと思います。
7/24 「静けさの世界」 aristotles200さん
静寂に覆われたディストピアを描いた作品ですね。2連目にある「塩の柱」とは旧約聖書にある「ロトの妻の塩柱」から得た着想でしょうか。
ソドムとゴモラの滅亡の際、ソドムから逃げる途中に振り返るなとの神の言いつけに背いたロトの妻が、塩の柱にされたという伝説。
でも、恥ずかしながら私は、まず最初に有川浩によるライトノベル、「塩の街」を思い浮かべてしましました。これは、突如として空から巨大な塩の結晶が落下し、同時に人々が塩へと変わる「塩害」と呼ばれる怪現象が発生した世界の物語です。
それはともかく、全体として厳かな感じで統一されていて、美しく仕上がっていると感じました。
また、三分された世界観により、この詩の構成がとても良く整えられていると思います。
そして8連目の、人々がその愚かさ(?)から塩の柱へと変わってゆくのが良いですね。ロトの妻が振り返ったのも、悪徳の街ソドムへの執着が残っていたからなのかもしれません。また、「最後の声は/ありふれた/母を呼ぶ声だった」というところも、信仰を失ったもののよりどころが母親だったというのが、シニカルでありながらどこか哀愁も感じられて、とても美しいと感じました。
ただこれはとても些細なことなのですが、7連目の「やがて飽きる」や、8連目の「業とか」という表現が、全体の雰囲気にややそぐわない感じがしましたので、それらにもう少し工夫があれば尚いいかな、と思いました。
例えば、「やがて飽きる、全て色褪せてしまった」というところを「程なく訪れた倦怠が、全てを褪色させてしまった」みたいに、また、「業とか」を「あるいは 業」みたいにしてみてはどうでしょうか。
全体を通した文体が厳かな感じなので、これらのような些細な点がかえって目立ってしまうような気がしました。
それでも、それらは本当に些細なことで、この作品に流れる「厳粛なる静けさ」の雰囲気を損なうものではありません。
ですから評については、佳作としたいと思います。
7/24 「深夜の能舞台」 温泉郷さん
都会の中の限られた土地で懸命に生きる、いわゆる「雑草」と呼ばれる草の姿を描いていますね。その、周囲を人工物に囲まれた土地を、能舞台に例えているところが斬新だと感じました。
いくつか植物の和名が書かれていますが、それらの中で一番印象的だったのが、なんといっても「ヘクソカズラ」です。実際にその臭いを嗅いだことはないのですが、何だか身も蓋もない名前ですね。この草からしてみれば、その嫌な臭いも生き残るための大切な手段だったのでしょう。ちなみにこの草には、かわいらしい花を咲かせることから、サオトメバナとかサオトメカズラといった呼び名もあるそうです。
それはともかく、もう一つ印象的だったのは、「外側までは進出できず」「人に踏まれながら」「ぎりぎりの際で/小さな花を咲かせている」といったところが、いわゆる撹乱地に生きる、そして、撹乱地でしか生きられない「雑草」の姿をうまく表していることです。そしてそのことが、次の連の「ここだけが/彼らの舞台」というところをスムーズにつなげています。
さらに、6連目の能の描写が幻想的で良いですね。特に「冬枯れの/幕間に見た夢を披露する」というところが、草たちの生の厳しさが巧みに表されていて美しいです。
ただひとつ気になったのは、その後の終わり方です。なんとなく詩の途中で途切れてしまっているような印象を受けました。その後に詩全体を締める部分があったほうがいいように思います。例えば、
昼間の街に犇めく
喧騒の裏に潜む
誰も観ることのない
深夜の能舞台
しめやかに
ひそやかに
風の謡に
緑の装束が舞う
みたいな感じで締めてみてはいががでしょうか。
評については、佳作一歩手前としたいと思います。