フリータ、美女の遠景を描く。 佐々木 礫
俺がここに詩を書くならば、世紀のものにしなければなるまい。世紀のフリーターが、世紀の名文句を綴らなければ。
朝方、都内のバーのベランダで、沈黙するベーゼンドルファーを背にして煙草を吸っていた。自分に残された数年分の若さを噛み締めながら、今やもう断絶し交わらぬ糸として架空の糸を弄び、かつての友人・恋人のことを懐かしく思い出す人間味は成熟した美観があるだろう!カーテンが風にそよぎ、ベーゼンドルファーと俺も断たれた。俺は彼女の背中を隠すベールに手をやって「おい、何をする」と剥がしてやった。しかし、彼女は何も言わずに、黒い背を向けて、ただ夜の風に寒そうにしているだけだった。また風がカーテンを運び、俺と彼女の間は再び柔らかに重く断たれた。俺にはピアノは弾けやしない。彼女の声を聞くことはできない。たばこを一本吸い終わり、ふぅとため息を一つついて店の中に戻る。後ろ窓を閉めると、俄かに風が止んだ。今日のセッションでピアノを弾く小男がバーの椅子に座り演奏を始めた。演奏は俺の全く知らない曲で、閉店後のバーだからいいものの、うちとはコンセプトの違うJ-popのピアノカバーで、フローは良いし全ての音が入力されていることは分かるのだが、少したたきつけるような弾き方が癪に障り、音の伸びも弱いものだった。「子猫が戯れているようなものよ。私は気にしないわ」「俺は気にするんだよ。勿体無い」
「あーそれにしてもさっきは寒かったわ」ベーゼンドルファーは無関心なようだった。
俺は「おい、松尾、あっちで酒のもう」と室内にいる後輩に声を掛ける。「はい、岡田さん」 俺たちは主な照明が暗転した後の薄暗いカウンターで酒を飲むことにした。「俺はジンバック」「僕はー、ハイボールで!」バーテンはこれだけが自分の仕事と言わんばかりに、丁寧に丁寧にジンバッグを調合していった。最後にライムの果汁をかけて、マドラーは差したまま俺のコースターの上にぴたりと置かれた。松尾のは中が三角の特徴的なグラスで、氷を二、三個入れるともういっぱいになりそうだが、そこれに多量のウィスキーと炭酸水が継ぎ足されていく。
乾杯もせず、爽やかなジンバックのグラスをグイグイと飲み、
「全く、ベーゼンドルファー、ドイツの高級な女は俺たちがバーで安い酒をたらふく飲むのに興味がないらしい。」と俺は言った。さっきまでは、春先の寒さの中で不機嫌だった彼女は、気候が良ければ文句を一言二言言ったに違いない。「なにをくだらないことをしているんでしょう、あの人たち」なんて。
しかし、言わない。これは俺が酔っているせいなのか?酔っているせいなのか。
それとも、本当に彼女はそこにいて、
黒い背を曲げ、角張ったウィスキーグラスを回し撫でるマドラーと氷のぶつかる音を聞いているのか。
いよいよ頭には酔いが回り、俺にはもう分からない。
ただし、確かなこともある。世紀のフリーターの抒情的な夜が、捉えようもなくひとつ静かに過ぎて行こうとしているのだ。
ああ名文句、こんな世界だ。この情景は朝が来る前の小さな残火。大きすぎる太陽には影として怯えながら夜を待つのだ。
手に持つわずかなジンとハイボール、それは今宵を終わり良きものにするだろう。乾杯せよ、すぐに飲み干し、テキーラを分かち合おう。
「さあ、みんなで、、、、、テキーラー!」
ジンの爽快な熱で加速する妄想を余所に、俺は無言でグラスを空に乾杯させた。最後の曲はショパンだった。ポップスよりずっと丁寧で官能的なメロディ。俺は「なんだ、クラシックの方が上手いじゃないか。」とドルファに語り掛けたが、この浪漫の香りに彼女は眠りに付いたのだろう。やはり返事をしなかった。