評、8/15~8/18、ご投稿分。 島 秀生
わたし的には、
ツクツクボウシ → 虫の声が聞こえ始める → 秋
というステップなんですけどね。
そういえば、夜になってもまだ虫の声が聞こえない。
(耳鳴りは聞こえてるけど)
長いですよね、夏。
来週後半になったら、ちょっと季節が進むのかなあー
一時、誤情報とされましたが、数々の良い詩集を出された書肆山田は、本当に廃業した由です。
書肆山田の既刊本も、もう書店ルートで取り扱いされていません。
創業者のお一人が亡くなれた影響が、やはり大であったようです。
●司 龍之介さん「輝く泡」
いい詩ですね。しかも、あったかい。これ、司さんの最高傑作ではないでしょうか。
2つの話が同時進行していて、最初は、両者かけ離れているかに見える、「私とあなた」(奇数連)対「迷子の子猫さんと犬のお巡りさん」(偶数連)なのですが、連を追うごとに両者は近づいていきます。終盤では、「迷子の子猫さんと犬のお巡りさん」が翻って「私とあなた」の比喩であったことがわかるとともに、両者は一体のものとなっていきます。
同時に人生観が語られ、人生の短さは泡のようであること、しかしながら二人の温もりの元に過ごせば、その泡は金色の輝く泡となれることを説いています。
5~6連の体言止めの連続のあとの、7連「あらなんと」の切り替えも鮮やかでしたね。いいリズム感で、はまりました。
また、3連の「感謝だけは忘れずに/生きていこうと思います」の言葉もいいね。人間はすぐ慢心しがちなのだけど、一人だった時の孤独感を忘れずにずっといれば、自然と相手に感謝の念は湧いてくるというものです。
司さんの人生観や思考といったものにも、賛同したいものがありますね。
名作&代表作入りを。
些細なこと1点。
ここの場では( )付き記載となり、ルビは振れないんですが、初連3行目の「何時」は、(なんどき)のルビを振った方がいいでしょうね。たぶん、「いつ」ではなく、そっちで読ませたいはず。
●温泉郷さん「サボテンと秋を待つ」
文体はもう完全にできてますね。内容をおいても、まずもって全文を読むだけで文学の香りを味わえます。
とりわけ前半、とてもいいですね。朝鮮半島からの引き揚げ。途中亡くなる人、殺される人も多い中で、命からがら引き揚げてこられたのがわかる。と同時に、冒頭の「手記」の内容が、この時の話が書かれたものだとわかります。
また、4連のほかの植物がなんなのかはわかりませんが、このシャコバサボテンだけは、自分の人生の手記に絡んで頂いたものだけに、自分の人生を知ってくれてる肉親の作者に託したかったんでしょうね。(加えて言えば、ほとんど手間のかからないこのシャコバサボテンであれば、あまり面倒をみない作者でもなんとかなるだろうと思われていた部分もあるかも、ですが。)
施設に入るにあたり、大切に育てていた植物を整理されたのも、家との別れの覚悟と言いますか、もの悲しいものがありますね。この詩は、お母さんの人物像がとてもよく察せられる形に書かれていると思います。そこが、この詩の一番いいとこですね。
ただ、この詩の印象については、一つぼやけるものがあるのです。
11連で、サボテンのしなっとした様子が後ろめたさとして書かれていますが、
ここがね、ちょっと引っ掛かるんです。8月に訪れた、この日が一番ひどいことになってた。とか、いつもなら戻るのに戻らなくなってたという最悪な状態を隠してる、と言ってもらった方が、11連の意味はわかりやすかったのですが、
7連の「毎週の儀式」の言葉が結構ジャマをしていて、5~6連の様子が、「毎回こんな感じ」みたいに読めてしまう。そこで、そう読んでしまうと、11連で隠しているものも、毎回そんな調子の常態化したものを隠してる、ということになって、ちょっと意味が変わってくるんですよね。
正直なところ、そもそも「毎週の儀式」という言葉がなかった方が、この詩はスルッと読めたんですけどね。この言葉があるために、5~6連の様子が、8月に行ったらとびきり状態が悪かったの意か、いつもこんな感じが常態化してる意か、メリハリをつける必要が出てきた、ということです。
そこでメリハリがついてないと、11連で「隠してるもの」がぼやけてしまって、11連のインパクトがなくなるんですよね。
なので、この点だけ改善を図って下さい。
現状でも名作ですが、ここの改善を図ってもらったら、代表作入りも可能。
●こすもすさん「時間という川」
うむ、こすもすさんは、途中のプロセス部分をきちんと書かれるのが、いいとこですよね。そこの丁寧な書きぶりが、詩全体の豊かさにも繋がります。
また、基本の起承転結の構造をきちんと守って書かれてるのだと思う。そこも良いとこですが、ラストだけ、もう少しインパクトを持ちましょうかね?
終連に行くまでに、「速く」「遅く」はすでに3回使われているので、4回目はもういいと思うんです。また、「流れ」という言葉も都度都度使ってこられてますから、伏線は充分といいますか、「流れ」という言葉も、もう抜いて大丈夫な状態です。
ついてはラストでは、そこを踏まえて、もう一段ステップアップした表現にしませんか?
ひとつ前の連から行きます。
決して
流れが止まることはない
時間という川
そんな川の中を
私は今日も漂っている
ラストはこれでいいと思うんです。一考してみて下さい。
いいとこまで来てますけどねー。秀作半歩前としましょう。
●相野零次さん「鍋」
抽象の鍋。その鍋に放り込まれるものは何か? 放り込むべきものは何か? そこを突き詰めるドロドロ感がいいですね。発想も語彙力も豊かに、粘り強く書き込まれているのがいい。秀作プラスあげましょう。
1点、どうしても気になるのが、
1行目がね。2行目の形容ではなくて、1行目だけでワンセンテンスの終止形に見えるのですよ。特に、「ぐつぐつ、ぐつぐつと煮えたぎる」という言葉のせいもあって、鍋の映像が浮かぶのです。もっと言えば、もう具材が入ったあとの、煮えている鍋の図が浮かぶのです。
ところがね、2行目以降が、これから切り刻んで入れていく様子が描かれているので、結果と工程の図が、逆転して見えるのです。順序が逆転して見えるのですよ。(書いてる本人にはわからないかな? 推敲時には頭を一回クリアにして、客観的に見る必要があるのだけど・・・。)私はこのギャップを残したまま、ずっと続けない方がいいと思う。解消してから次に行った方がいいと思う。
それで、1行目を主行とした逆転を、4行目までで一度切って、冒頭4行をプロローグ的にしてはどうか? という案を提案しておきます。「最終的には僕自身が具の一部となるのだろう」という、詩の終盤で出るべき言葉が先に出てきてるのも、これで同時に解消できます。こんな感じです。
ぐつぐつ、ぐつぐつと煮えたぎる生命の音がする
愛とか蝶とか、春とか光る朝とか
生命そのものを味わうための具を選ぶ
最終的には僕自身が具の一部となるのだろう
闇のナイフで切り刻む
腐ったキャベツや熟れ過ぎたトマトを
生命そのものを脅かすような輩を全て切り刻む
そうして煮込んでいる鍋にぶちまける
生命そのものの疑問全てをぶちまける
(以下同文)
この方が、全体構成が見える形ではあります。ご一考下さい。