決断 静間安夫
ジャーナリストとして激動の世界情勢を取材するために、ヨーロ
ッパ・中東で海外生活を続けて、すでに四十年近い歳月が流れた。
振り返って最も印象に残ったのは、テロの脅威が文字通り日常生活
と背中合わせになった地域での、恐怖と緊迫感である。
たとえば、東西ドイツが統一して数年後、ネオナチによるトルコ
系移民の襲撃事件が頻発したころ、ベルリンに滞在する機会があっ
た。新聞・テレビを通じて、極右過激派に関するニュースが盛んに
報道されているにもかかわらず、街路や地下鉄で見かけるトルコ人
女性の衣装が、以前にもまして伝統的な雰囲気を漂わすようになっ
たことに驚いた記憶がある。自分たちが標的になっているのは重々
承知の上で、むしろそれゆえにイスラム教徒であることをより明ら
かに周囲に示そうとする意思が感じられた。黒のヒジャブを纏った
彼女たちの、遥か彼方を見つめるような透明な眼差しが印象的だっ
た。それは、地上の価値より天上の価値を追い求める姿であった。
このように、テロが日常的に繰り返される地域に住む人々にとっ
て、危機的な状況に対していかなる態度をとるかが、自らの思想信
条の試金石となっているのだ。この点、我々日本人にとって、テロ
は未だに非人格的な天災であるのかもしれない。
最近評判になった、ドイツのある有名作家の戯曲でも、こうした
決断がテーマとなっている。スタジアムの観客七万人を救うため、
乗っ取られた旅客機を撃墜してスタジアム突入を防いだものの、引
き換えに旅客機の一六四人の乗客を死亡させた空軍少佐の、まさに
個人としての決断だ。
憲法と裁判所が、テロリストによって引き起こされる可能性のあ
る事態に対して、あらかじめ指針を与えなかった結果、重大な判断
を一身に負わされることになった空軍パイロットの姿は、従来の法
律や道徳に答えが見出せない現実に直面して、ひとりひとりが行動
を決定しなければならない時代に入ったことを示している。
この戯曲は、テロに立ち向かう側の視点から、一種の思考実験を
試みたものだ。これに対して、以下に要約を述べるのは、わたしが
中東地域で取材したエピソードの一つであり、テロの加害者を巡る
複雑な現実を浮き彫りにしている。
―あの出来事が起きたのは、アキフが十二歳のとき。コーランの勉
強より理科が好きだったアキフは、学校から帰ると釣りに行ったり
両親を手伝って家畜の世話をしたりして、イラク東部の農村で平穏
な日々を送っていた。一つ年上の兄セリムは、羊や牛を見ても尻込
みするような臆病な子供だった。
兄弟の姉で十六歳になるエメルが翌春に挙式を控えた冬の夜のこ
と、戦闘服に身を固め、長い髭をたくわえた二十人ほどの男たちが
村にやって来る。白黒の旗を掲げた彼らは、親から子を引き離して
トラックに載せ連れ去った。抵抗したものは撃たれ、泣いて懇願し
たアキフの両親の生死も明らかでない。
酷寒の中、一昼夜荒野を移動して到着した町は、当時テロリスト
たちの支配下にあり、イラクの国中から誘拐した八歳から十六歳の
子どもたちを、男女別々に監禁していた。ここで、アキフとセリム
は、学校のコーランの授業では習ったことがない過激な内容の章句
を一言一句暗唱させられ、爆弾の作り方、凶器の扱い方に至るまで
ナイフを手にしたイマーム(指導者)に訓練される。しくじれば意
識を失うまで鞭打たれた。エメルの姿はたった一度遠くから見かけ
ただけだった。
こうして春が過ぎ、夏も八月の中旬にさしかかったある日、兄弟
はイラク北部の都市まで連れて行かれる。数日に亘る入念な下準備
の後、日曜日の夕刻、二人はTシャツの下にダイナマイトを隠し持
ち、クルド人の会衆が多く集まる二箇所のモスクに、それぞれ突入
して自爆するように命じられる。もし途中で逃げ出すようなことが
あれば、姉の命はないと脅されていた。アキフは、華奢な身体に不
釣り合いに大きいTシャツを着ていることを不審に思った警官に犯
行の直前に拘束される。一方、セリムはほぼ同時刻に自爆し、雷の
ような大音響が街中に轟いた。
監獄に送られたアキフは、解離性障害の症状を呈したため、ひと
りの医師が、絵を描かせながら本人の記憶を回復させた。その絵に
は幸福だった故郷での日々を連想させる様々な動物たちが登場する
一方、テロリストたちによる冷酷な訓練の実態を暗示する表象がた
びたび現れる。それらから、殺人の「教材」に如何に非人道的なも
のが使われていたかが明らかになっていく。
ところが、テロリストの洗脳は成功しなかった。通行人が偶然撮
影したビデオに、アキフがモスクに入ろうとして入れず、結局そこ
から人気のない通りまで走り去った一部始終が映っていたからであ
る。加えてセリムが自爆した場所も、モスクではなかった。つまり
兄の方にも、被害をできるだけ少なくしようと試みたあとが窺える
のだ―
おそらく兄弟は、最後の瞬間まで、姉の命と多くの人々の命とい
ずれを選ぶか、計り知れない重圧に苦しんだことだろう。それが、
まだ幼いアキフに精神の平衡を失わせた最も大きな原因であると思
われる。苛酷な決断を強いられた子供たちの姿こそ、テロが日常と
化した世界の悲劇を象徴している。
エメルの消息は今なお不明のままである。(了)