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スレッドNo.6223

9/16〜9/18ご投稿分の感想と評です  荻座利守

9/16〜9/18ご投稿分の感想と評です。宜しくお願い致します。
なお、作者の方々が伝えたかったこととは異なった捉え方をしているかもしれませんが、その場合はそのような受け取り方もあるのだと思っていただければ幸いです。

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9/16 「幸せのハードル」 ゆづはさん

こんにちは。MY DEAR 掲示板では初めてですので、今回は感想のみとさせていただきます。
詩の前半では、嬉しいことがあっても、すぐに期待が裏切られ、それが束の間の糠喜びであったことに気づいたときの苦しい心情が、丁寧に描かれていますね。
しかし後半で、ハードルを緩やかに下げることが述べられて、詩の雰囲気が明るい方向へと反転します。このように常にハードルの高さを調整してゆくことは、心の健康には大切なことなのでしょう。
表現について前半では、2連目の「深い息が水底へ沈みゆく」、4連目の「冷たい夜気に肩を抱かれる」、5連目の「無意識に過ぎ去った時間」といったところが、苦しい心の有り様を上手く表していると感じました。
また後半部では、6連目の「目の前にひっそりと咲く/ささやかな喜びを」、7連目の「あたためていた想いの欠片が/静かに煌めき始める」というところに、見失っていたものに再び気づくことの喜びが鮮明に感じられます。
そして最終連4行では、いまだ失われていない希望の光が自分を待ってくれている予感が、美しく描かれています。それがこの詩全体を上手く引き締めていますね。
ただこれは些細なことなのですが、欲を言えば2連目で「指の隙間からこぼれ落ち」るものを、何らかの比喩で表しておいたほうが、落胆する感覚がより読者に伝わってくるように思えます。(例えば「砕けた珠玉が乾いた砂粒と化して」みたいな感じで。)
でも、それがなくても思いは伝わってきますので、必須というようなことではありません。
全体を通して、ささやかな内面的な再生を描いた作品ですね。8連目の「足音を深く刻みながら」というところに、再び前を向いて着実に歩いてゆく決意が感じられました。


9/16 「台風コロッケ」 松本福広さん

私はテレビの天気予報をほとんど見ないので、冒頭の「天気予報の日本地図にコロッケのアイコンが並ぶようになったのは、いつ頃からだろう?」という一文から、本当にそんなことをしているテレビ局があるかもしれないと思ってしまったのですが、私が調べた限りではそのような情報は見つからなかったので、おそらくこれは創作なのでしょう(ホッとしたような、ガッカリしたような・・・)。
それはともかく、全体的に不条理で、アイロニカルで、どこかシュールレアリズムのような感じもする作品ですね。
ネットの世界の中で話題になった、「台風が近づいたのでコロッケを食べる」ということの不条理さを、さらに推し進めたような印象を受けました。
前半部分の、子どもに向けた気象予報士の説明が特に不条理で、ダイエッターのプックプーがとても面白いです。
そして後半の、読んでいるだけで胸焼けがしそうなコロッケづくしの食卓の描写も、アイロニカルでいいですね。
そもそもこの「台風が近づいたのでコロッケを食べる」というのは、元々はあるインターネット掲示板の書き込みがきっかけだったそうです。その台風とコロッケという何の脈絡もないつながりがウケて広まったとのことです。
それを思えば、これはあくまでも個人的な感想なのですが、末尾の雲や雷や雨をコロッケと結びつけるような表現は、やや無理があるようにも感じられますので、なくてもいいのではないかとも思います。
脈絡のないつながりは脈絡のないまま、不条理なものは不条理なままにしておいたほうが、より面白いような気もします。ですから、最後は台風をコロッケに寄せるのではなく、台風がコロッケと全く無関係であることを示すような表現(例えば落としたコロッケが激しい雨風に崩れてゆくさまを描いたりとか)を置いてみても面白いかもしれません。
でも全体に漂うシュールな感じがとても面白い作品です。
評については、佳作半歩手前としたいと思います。


9/16 「カタコト」 荒木章太郎さん

自分の言葉で話す、語りかけるということへの希求を描いた作品ですね。まず、序盤の「アナタニ アエテ ダイジョウブ デス」がとても印象的でした。日本語としてはどこかおかしいのですが、それがかえって意味深長な感じを出しています。それはおそらく、そこに「揺らぎ」があるからなのでしょう。ここで言う「揺らぎ」とは、あやふやさ、多義性を持たせられる余裕、あるいは言葉にならないコトバと言い換えてもいいかもしれません。
AIを使えば「揺らぎ」のない、整った文章を得られます。そのような文章は事務的なやりとりや表面的な交流には向いているのでしょう。でも人として互いに触れ合うには浅薄すぎるようにも思えます。そのことへの違和感が「君の戸惑い」となるのでしょう。
この「揺らぎ」ということを先程の「アナタニ アエテ ダイジョウブ デス」に当てはめるとどうなるでしょう。「大丈夫」とは元々、大柄でしっかりとした、頼りがいのある男性を指した言葉だったそうです。その「しっかりとした」「頼りがいのある」ということから、「問題ない」という意味へ転じたという話を聞いたことがあります。そうであるならば、この文の「ダイジョウブ」とは、私を支えてくれる「アナタ」のことであると同時に、「アナタ」が私を支えてくれるから、自分が他者を支える「ダイジョウブ」で在ることができる、とも受け取れます。
そのことを踏まえると、最終連に「『大丈夫』と応えてくれる仲間」とありますが、これは不安を和らげてくれるということと同時に、互いに頼れる、支え合えるとう意味も含まれているようにも感じられます。
そして末尾に「不器用」とあります。AIの言葉に比べれば、私たちの「揺らぎ」を持つ言葉は不器用なのでしょう。でもその「揺らぎ」があるからこそ目に見えない「君と僕の感情の気配」を翻訳することができるのだとも思えます。そしてそのような翻訳は新たな創造の源ともなり得るような気がします。
また、今の世に追い立てられて置き去りにされた声が「からだの声」と表されています。これは身体感覚からの声、あるいは自らの体験に基づく声といったようなことでしょうか。この「からだの声」という表現もまた、意味深長な感じでいいですね。
何だか個人的な解釈に偏った感想になってしましました。すみません。
評については、佳作としたいと思います。


9/17 「秋」 喜太郎さん

今年の夏はことさら暑かったですね。その暑さもようやく一段落しそうです。そんな中で秋を待ち遠しく思う心の書かせた詩、という印象を受けました。
また、秋になり、木の葉が色づき落ちてゆく様を描いたものではなく、まだほんの微かでしかない、秋の僅かな気配を、木の葉が感じ始めたことを描いた作品のようにも思えました。
1連目に描かれた落葉は、本格的な紅葉と落葉が始まる前、まだ木に茂る葉にその準備を促すための、言わば「先遣隊」のような印象を受けました。
次の、2連目と3連目では、1本の木に茂る数多の葉が、ひとつの社会を形成していることを表しているようにも感じられました。特に3連目の対句法が、全体の構成を引き締めるいいアクセントになっています。
そして4連目で表されているのは、生命の循環ですね。秋になり葉が枯れ落ちることは、生命の流れが断ち切られる全くの死ではなく、その後訪れる再生への第一歩だということ。そのことを踏まえると、最終連のカサッという音が教えてくれる秋の訪れは、単なる季節の移り変わりというよりも、生命の循環の一幕ということになると思います。その点は、死をテーマにした絵本「葉っぱのフレディ」を連想させます。
ただ、秋と落葉や生命の循環というテーマは、これまでにも数多く扱われているものですので、ここは何か独自の視点や表現が欲しいところです。3連目が表している、1本の木に茂る数多の葉の相互関係のようなことを、より膨らませて表現してみても面白いのではないでしょうか。
でも全体的には、構成が上手くまとまっていて、読みやすい作品だと思います。
評については、佳作一歩手前としたいと思います。


9/18 「飛行船」  Emaさん

こんにちは。MY DEAR 掲示板では初めてですので、今回は感想のみとさせていただきます。
幼い頃に見た飛行船を通して、見失ってしまった心の内の「何か」を表した作品だと受け取りました。
私も子供の頃、広告用の(おそらく無人の)飛行船を何度か見たことがあるのですが、最近では全く見なくなりました。2連目の「いつのまにか/私の世界からこぼれ落ちていた」という表現に実感が湧きます。
3連目の「ちっちゃな乗り物を手に入れて/向かうところ敵なしだった私」というところに、幼児特有の全能感が上手く表されています。それでも当然ながら追いつけなかったけれど、飛行機よりもずっと近くて届きそうだったというところに、低空をゆっくり飛ぶ飛行船の姿が目に浮かんできます。
また、幼稚園に通い始めた頃に、飛行船に乗ることができない(おそらく広告用の無人飛行船だから?)ことを知って、夢が「ぱちんっとはじけた」のは、現実を少しずつ受け入れ始める兆しなのでしょう。
その後、成長するにつれて飛行船が遠くなってゆく様子が描かれていますが、この作品における表現の白眉は何と言っても「日常の大半の青空は同じ画角になる」でしょう。ただ単に「空が狭くなった」だけでなく「画角」という言葉を用いることによって、煩雑な日常の中で視野が狭まり、大空をゆく飛行船と距離が広がってしまったことを見事に表現しています。
そして末尾で「喪失感に手を伸ばしている今日」を、「些細で重要なひとかけらとさよならした日」としてこの詩を閉じているところも、寂寥感がうまく出ていて巧みだと感じました。
この主題である飛行船は何を表しているのでしょう。「高揚感」「些細で重要なひとかけらと」といった言葉がありますが、おそらくそれだけで表せるものではないのでしょう。それについては読み手によって様々な解釈が生まれると思います。このようなことをどこまで表現するかはなかなか難しいところですね。ぼんやりとしすぎれば読み手に伝わらない、しかし詳細に表そうとすれば大切なものを取りこぼしてしまう。そのへんの塩梅も「飛行船」と「窓枠に固定された空」とを用いて、上手くバランスをとっていると思います。
全体的に、とても完成度の高い作品だと感じました。


9/18 「悲劇の中の恍惚」 司 龍之介さん

はじめまして。初めての方なので、今回は感想のみとさせていただきます。
心の中の苦悩や葛藤を「曇り空」に喩えて表した作品ですね。その苦悩は周囲と上手くやっていけない、その軋轢からくるもののように感じました。
2連目と3連目の「誰も助けてくれない」「誰かを頼れない」「周りは俺を蔑む」といった表現が、その苦悩がもたらす孤独感をよく表しています。
4連目の「土砂降りの中を帰った」とは現実と内面の両方のことですね。それを耐えることのつらさが、6連目の真っ黒な雲に表されていますね。
周囲から蔑まれると同時に、周囲の人々を蔑むということの内に、劣等感の中でどのようにして自己肯定感を見出すかということが描かれているように感じました。その葛藤が、現実と精神の両方の土砂降りの雨で表されているところに感じられました。
全体を通して、心の中の苦悩や闇といったことが、暗い曇天と土砂降りの雨を用いて視覚的に表現されています。ただ、タイトルにある「恍惚」という言葉が一番最後になって出てきます。あまりの苦しさ故に、やがてそれがひっくり返って愉悦に変わるというのはわからなくはないのですが、この場合は何となく唐突な感じもします。
雷雨や豪雨は多くの人とって忌まわしいものですが、中にはそれらを好む人もいるようです。どうもその理由は、雷雨や豪雨に伴う非日常的な感覚に魅力を感じるためのようです。そのようなことを比喩に用いて、「恍惚」を表現してみるのもひとつの方法ではないかとも思います。
でも、心の中の真っ黒な雲と土砂降りの雨が、現実の世界とリンクしている様子は、おそらく多くの人が共感するでしょう。

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