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スレッドNo.6303

めぐり逢い  静間安夫

 なじみの古書店で物色していると、電話で応対する店主の声が聞こえてきた。先方は
故人の蔵書の整理をしたいらしい。画集・美術全集の類を多く持っており、そこそこの
値がつくことを期待している様子だ。店主の返答は、丁寧ではあるが、つれないものだ
った。昨今は、インターネットを通じて、数々の名画・彫刻に触れることができるので
図版を売り物にした美術関係の古書はさっぱり売れない、と言うのである。学生時分、
高価な美術書に手が出せず、図書館で閲覧したり、知人から貸してもらったりした経験
と比べると、ずいぶん手軽に作品にアクセスできるようになったものである。
 ただ、同時に漠然とした疑問も浮かんでくる。今や複製技術全盛の時代にあって、一人
の鑑賞者が一つの作品と出会う体験は、ますます希薄に「味気のない」ものになっては
いないだろうか。もちろん、インターネットであれ、書籍であれ、複製されたものを鑑
賞するのだから、大した違いはない、とする向きもあるだろう。確かに、それらは「本物」
と実際に向き合うことへと導く、通過点に過ぎないかもしれない。
 そういった意見も承知の上で、書籍を通して出会った作品と、その受け手の間には
インターネットでの鑑賞に比べて、遥かに親密な関係が生まれやすい、と敢えて言いた
いのである。広く公開されたWebサイト上で見つけた絵画や彫刻を「自分だけに送ら
れたメッセージ」と思い込む、いや、誤解することがあり得るだろうか。やすやすと見
つけて手軽に入手できるようになった半面、失われたものがあるとすれば、この「誤解」
ではなかろうか。
 無論、書籍も公に出版されたものである以上、自分一人にだけ向けられたものではな
い。しかし、そのことを十分にわかってはいても、ようやく手に入れた大判の美術書の
一ページ、一ページをめくりながら、それぞれの作品につけられた解説者のコメントを
頼りに、画家や彫刻家の秘められたメッセージを受け取ろうと熱中するとき、この作品
は自分だけのもの、と思いたい「誘惑」から逃れるのは難しい。自室で本物の絵画を愉
しむ個人コレクターの心理と似ているかもしれない。そして、はるか昔に遠い国で創造
された芸術作品と自分がめぐり逢ったことに「不思議な運命」を感じるだろう。
 冒頭にかえって、結局、店主はできる限りの値をつけて、画集と美術全集を引き取っ
たとのことである。その話によると、故人は家業を顧みず、道楽で絵を描いていたが、
死後、家族にほとんど処分されてしまった。ところが、ただ一枚残された自画像を見る
と、とてもアマチュアが描いたとは思えず、大胆にデフォルメされた構図の中に、世俗
に背を向けた故人の意気地が、鬱勃と脈打っていたそうである。
 当時とすれば、相当高価な美術書の収集にも余念がなく、日本の仏像彫刻から西洋の
近代絵画まで、幅広い関心を持っていたと見え、技法の習得と背景知識の摂取に役立て
ていたようだ。
 ただ、所蔵していた他の全集には、欠本がなかった中で、唯一、全二十巻のうち、数
巻しか残されていないものがあった。各国の美術館ごとに、名品を訪ね歩くシリーズで、
ちょうど最初の五巻まで配本されたところで途切れていたのである。その旅が、フラ
ンス、イタリアを経てギリシアにさしかかったとき、当人の突然の死で、購入が中断さ
れたらしい。
 そして、最後となったギリシアの巻には、あるページに紙片が挟まっていた。海底か
ら見つかったゼウスのブロンズ像を掲載したページで、紙片には次の詩が書かれていた
という:

  ゼウス像

 果たして、古代の彫刻家は
 想像できたであろうか?

 丹精込めて作り上げた
 ゼウス像が、こともあろうに
 エーゲ海の底に沈み
 やがて二千年の時を経て
 再び地上に蘇るなどということを…

 それだけではない
 まさに、その
 大胆で力強いゼウスが
 書物の翼に乗って
 彫刻家の母国から、はるか遠く離れた
 極東の島国の
 武蔵野の中に棲む
 孤独な絵描きの わたしに
 めぐり逢うなどということを…

 そして
 雷霆を投げようとして
 左足を前方に踏み出し
 右腕を大きく振りかぶる
 ゼウスのダイナミックなポーズに
 わたしが見惚れている、ちょうど今このとき

 アトリエに差し込む日差しが
 にわかに弱まり
 窓外に見える空には
 黒雲が湧き起ったかと思うと
 高き欅の木々の梢に
 稲妻が閃いている

 どうやらゼウスが
 この草深き野にも
 春を告げる雷を
 投げ放ったと見える

 思うに、店主が蔵書を引き取ることにしたのは、芸術と書物を愛した故人への手向け
だったに違いない。(了)

編集・削除(編集済: 2025年10月05日 20:53)

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