鏡の憂鬱 松本福広
幾重もの合わせ鏡の
籠に囲まれた世界
ビーズとスパンコールが
くるくる踊る。
子どもたちにも手が届く
素材が織りなす
きらめきの円舞
無邪気な反射を繰り返す。
光の粒たちを見ていると
子どもの時に
置き忘れたような
色に対する感覚を取り戻す。
色に対して
透明でいられた頃。
色について勉強をすると
ニーズに合わせて
色に対する効果や特性を
活かすことが出来るようになる。
感性を鈍らせないようにはしているが
経験と知識が混ざってしまう。
それは以前ほど
純粋な感度ではないように感じる。
単純に綺麗だと思い
素直に見ていたいと願った頃。
その頃と、今の自分は
奇数の合わせ鏡(※)のように
うまく重ならなず
描いた像にならない。
奇数の鏡といえば
鏡の法則なるものがあるらしい。
自分を取り巻く人々や環境は
自分の心や態度を
そのまま映しているらしい。
自分が苦手だと思っている人は
自分のことを好ましく思っていないし
自分が頑なに人を拒んでいると
他の人も心理的な距離では
近寄ってこない。
人と人が生活する現実は
幾重もの鏡がはられているようだ。
多重の合わせ鏡というのは
万華鏡に重なる。
合わせ鏡なら
私が気になるあの人も
そうであってほしいけど
違う人に気があるようで。
この世界は
奇数の鏡なのかもしれない。
いつだって二で割れば
一つ余る世界。
そんな一つ余る世界にも
ひとつだけ希望がある。
底があるなら
上がある。
万華鏡を覗き込むことで
色彩と反射の
幻想を描くよう作られた
底面が見える。
万華鏡から目を離し
上を見ることで
夢の象徴として
描かれるものが
広がっているのを目にする。
太陽から注がれる光が
大気に散乱して
人の目に最初届くと言われる
青の天面。
そら。
万華鏡の中の
ビーズやスパンコールたちが
見上げても
そこに広がるのは
闇ばかり。
子どもの頃から
綺麗に感じていた
空の色は見られない。
あの色の下に
いられることは
現実を生きる
私たちの特権なのかもしれない。
鏡の法則を振り返る。
自分も誰かの鏡なのだろう。
鏡は鏡であることを自覚しないし
鏡は自分を写せない。
奇数で余った一枚の鏡は
自分だったのかもしれない。
過去の自分という鏡に
本当に重ねられるのは
誰でもない
今の自分しかいない。
ビーズやスパンコールが
織りなす舞踏会。
夢の中は
いつだって覗き込める。
この宴を見ながら
ふと思うのだ。
死ぬ時に流れると
言われる
走馬灯。
私が鏡であるなら
最後に写す光景は
この景でありたい。
そして
煙になり
空の色へと消えていく。
【補足】
※奇数の合わせ鏡……万華鏡は偶数の合わせ鏡で作られます。奇数だと鏡像が重なってしまいブレた画像になってしまうそうです。
実際の画像は、下記のURLの通り。
今回使用した調べごとに使用したURL:キッズアイランド【万華鏡のしくみ】
https://www.jp.nikon.com/company/corporate/sp/kids/kaleidoscope/