密やかな舞踏のあと 佐々木礫
  仕事に疲れて出た俺のため息は、 どうしようもなく、 彼女のため息そのものだった。
  何も喋らなくても、その短い、 小高い声の小さなため息が君のものであることは、一目瞭然だった。
  薄暗く、誰もいない教室はダンスホールだった。机と椅子がすっかり廊下に出されて開けている。
 左前には黒い小さなグランドピアノ。文化祭で、彼女が弾いたものだ。可も不可もない、合唱用の歌。
俺は集団イベントなんて好きじゃないが、それでも合唱祭の練習には参加した。彼女の弾くピアノが聴きたかった。彼女がピアノを弾く姿を近くで見ていたかった。 
 窓から吹き込んだ桜は、ひたひたと床に落ち、破れた音符の切れ端となり、もの寂しい空間に染み込んだ。時折、破裂音のような誰かの叫び声が、廊下の奥で弾けて反響しているようだ。 顔を上げると目に入る天井のシャンデリアは、現実の窓を濁すように、虚しく明かりを残していた。煌びやかな反射が過去を求める俺をくっきりと鏡映し、俺は目を背ける。
 装飾用のガラスのように固くて脆く、いつかは錆びて溶けてゆく運命にある贅沢品。 まるで俺たちみたいだと思った。彼女もあの教室にいるのかもしれない。 
 今、壁際のピアノの黒い椅子の足元、誰かの靴が片方だけ、 つま先を外へ向けて置き去られている。 それは彼女のものだったろうか。 それとも、俺が履くべき夢が靴の姿をして、 俺の逃亡を助けようとでもしているのだろうか。 また少し遠くで、微かにピアノが聞こえた気がした。 記憶か、残響か。  俺の吐息だけが、埃を揺らした。 
 窓の外では、霧が立ち上る。 風に混じって、 「あの時の声」が呼びかける。 名もない少女の笑い声、 まだ色褪せていない、最後の青。 俺は立ち上がる。 踊らなかった舞踏の続きを、 あの破れたリズムで踏もうとする。 すると足元に、 花弁より軽い、あるいは記憶より重い、 ガラスの仮面が転がってきた。 それは、カラン、と寂しく響き、誰かがここにいたのだと教えてくれた。それを拾うと、透明な冷たさが掌を染めた。そして、あたりはますます静まり返り、 俺はそれを持ったまま、もう一度、空想のさらに続きをみようと、 目を瞑り、天井を仰ぎ、青空を見た。 
 次に懐かしいチャイムが鳴ったなら、 俺は急いで目を覚まそう。 
 そして黒い学生鞄を持って、憧れの人に会いに行こう。