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スレッドNo.6442

また夏が  雪柳(S. Matsumoto)

仕事場への道の途中
空をゆく揚羽蝶を見かけた
子供の頃 ふるさとのミカン畑で卵を見つけ
大事に育てた蝶は あんな姿だっただろうか
学校へ行っていた留守の間に羽化し
家族が放してしまったあの揚羽蝶は

ふいに記憶の蓋が開いて
ふるさとの夏が 脳裏に溢れ出てくる
すぐ傍にあり 毎日のように泳いだ光踊る海
浜辺での 親しい人たちとの夕涼み
夜毎仰いだ満天の星、そこに象られた季節の星座
神社の杜から響いていた蝉時雨
草いきれの中 夕暮れまで遊び戯れた野原
置き忘れられたような田舎に暮らしながら
満ち足りた時間を過ごした

いつの頃からか
そんな夏の訪れは途絶えていた
ふるさとを離れたことのためばかりではなく
それはきっと 憂いのない子供の時期でなければ
得られなかったであろう至福の夏だから

もう戻らないもの 願っても叶わないものを
思い起こさせられるのは悲しく
ならばいっそなかったことにできはしないかと
段々体にこたえてくるこの時季の日差しの下
頭の中で 摘み取った記憶の束を抱え
野辺送りよろしく運んでみても
結局どこにも葬り去れるあてのないそれは
幼い頃心弾ませた夏への 疼くような想いを
つのらせるばかりなのだ

さっき見た揚羽蝶は いなくなってしまった
けれど 別れを告げられないままの私の蝶は
今もまだ あの日の夏空を羽ばたいている
年追うごとに増す 日常の労苦を背負いながら
長く歩きすぎて
もう帰り道も分からなくなった遠いふるさとに
今年もまた 子供らのためだけの
珠玉の夏が来る

編集・削除(編集済: 2025年11月11日 12:57)

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