感想と評 11/14~11/17 ご投稿分 三浦志郎 11/25
1 詩詠犬さん 「夢みる糞袋」 11/14
凄い詩が来ました。まず1~2連です。若い頃の実感です。結婚前、大事な人とのデートでは、「ズボンを下げ 便器にすわり」は、
できれば避けたい事態でした。長いと一発でバレちゃうからです(笑)。でも、出たいものは仕方がない。所構わず。失態は許されないからです。しかしこの主人公の2連目「スッキリしたぞ~彼女が待ってる 待ってる」―このアッケラカン、このユーモア、すでにして勇気と言っていい。いや、人物がデカイです。続く3連も凄いものがあります。迫り来る便意の前には、哲学・思想、どんな高邁な話も糞の役にも立たない、の意でしょう。全くもって絶対的な真理です。ところで、後半の3連は前半と比べ、意味が通りにくい気がします。僕のほうで少し補足説明しておきましょう。
糞袋……胃や腸の異名。くそわた。転じて人体・人間のこと。
ことわざ……人間所詮は五尺の糞袋(出典不明 禅語のよう)
調べた結果、こうなるようです。この3連で、言いたかったこととは、どんなに美しく愛し合った恋人同士であれ、気高い聖人であれ、排泄という行為から逃れられない。そういう角度から見ると、所詮、人間そんなものだ。そういった訓戒に沿ったものと思われます。気高い精神と排泄という悲劇。その狭間で人は夢を見るもののようです。そのあたり、もう少し“通じ”やすくしたいです。*尾籠ながら注釈を付けてもいいでしょう。佳作一歩前で。しかし、ある意味、大事な詩です。誰もが書ける詩でないものを、よくぞ書いてくださいました。
* 尾籠(びろう)……下品だったり、口にしづらいさま、あるいは下ネタ的。
2 松本福広さん 「瞳のブルーライト」 11/15
僕はFACEBOOKを少しと、YOU TUBE 、LINEをけっこう使うといった者ですが、あまり操作性やメカニカルなことはわかりません。従ってどれだけ評になるかは自信がないですが、まあ、やってみましょう。
冒頭で「ネット発信のライトな恋愛小説」と出てきますが、この作品自体がそういった感覚で書かれ、
軽快で小気味よいテンポで書かれ、しかも大事な部分は外さない。良いフィーリングに思えます。
彼の職業―整体師が非常に興味深いです。床屋さんと一緒で世間話への精通、その為のスマホ。
いっぽうで人間の身体を歪にするスマホ。そして中間部「役立ちそうだとSNSに発信~魅力ある発信を心がける~誰かに見てもらいたくて~一定ペースの発信が必要~アンテナを張る」。たとえば「インスタ映え」とかYOU TUBERになるとか?
これって一種の趣味として確立しているのでしょうね?全くの門外漢なんでよくわかりません。
例えば、詩、小説、音楽、絵画など、楽しみながら技術を磨いて発表する、世に問う。そんなレベルと同列なのでしょうか?「〇〇」といったふうに名称的に分野的に完結して?
「インスタントな情報の取捨選択」の連以降を考えます。確かに全く多機能、全く便利。人々が夢中になるのはよくわかります。しかし、此処に書かれていることは憂いも多いのです。知識は簡便に手に入ります。ただし、それを扱う行為とはどこか閉鎖的で個々に孤独感が濃い。ひと昔前の開かれたコミュニケーションとは少し違う。そういった事を感じます。しかし、それが良くも悪くも、現代の文化・風俗の姿ですね。終連は最も大事な部分と思われますが、僕は特性がわからないので、ここの理由がわかりません。わからないなりにも、全体を見渡してみると、破綻もなく、丹念によく書けてる、道理もあると思うわけです。甘め佳作を。
3 荒木章太郎さん 「何のかけらもない街」 11/15
僕は前作より良いと思いました。この詩の特色である構文を検討しましょう。付属句(目的語句・修飾語句・副詞句など?}を伴いながらも多くの文体が「AはBした」のスタイルなのです。これを「ちょっとルーティーンっぽい」という人がいるかもしれませんが、僕はそうは思わず、読みやすかったです。その文体に乗る内容はいつもの奇抜なものですが、今回のスタイルは似合う気がしています。主語の持つ奇妙。常識と非常識。道理と不条理。それらの交錯状態が皮肉のフレーバーの中で語られます。意外と正論も多いかも?冒頭と終連は何事かの循環を示唆していそうです。
この詩のわからなさ、は、ANYWAY~ともかくとして、これは佳作にします。
アフターアワーズ。
好みの問題なので、こちらに。「撃たれた母鹿~子持ちの鹿」「抽象的に~抽象の中で」。
全てが違う中で、ここだけ同種の言葉が重なるので、少し換えたい気はしました。
4 上原有栖さん 「アフター・ライフ」 11/15
そうですねー。演劇と実人生とは隣り合わせでしょうね。上原さんは書くにあたり、それを充分に考慮し、それを充分に読み手に伝えたい、それがこの詩の意義に思われます。
一点だけ疑問を呈しておきたいのは初連3行目「見知った顔ばかりが並ぶ観客たちの」なんです。
この詩はほぼ一般論的状況の描写なんですが、ここだけ、少し違和を感じた次第です。そういえば、中ほどにも「同じように去っていった顔なじみたち」「彼らと同じところに」とあるので、何か個別性が含まれるのかもしれない。そのあたりは、少し伏線をはったほうがいいように思いました。
あとは一人の演者、その人生の投影と読んで差し支えないでしょう。主役と少女との触れ合い。「暗転」以降も印象的です。「次の演目」―まさに「SHOW MUST GO ON!」であります。
「次がある」「スイッチが消される音がした」。どちらも演劇後のアフター・ライフでしょう。
この主人公はどちらだろう?結論は示されません。その判断は読み手にあるからです。佳作を。
アフターアワーズ。
読み返して今思ったのですが、これは実際の演劇を描いているように見えて、実はそうではなく、
人生そのものを、実際の演劇現場に置き換えて語ったものとも取れそうです。両用の読み方を提示しておきます。
どうぞ、お大事にー。
5 多年音さん 「いつかの星」 11/15
このかたは今まで比較的、単純素朴なフィーリングだったのです。今回も出だしはー「痛いの痛いの飛んでけと」―はい、素朴ですね!しかし、今回はそれを糸口に、一歩深い所を見せてくれています。スケールが違う、世界が広がる。以前の単純さがスケールと広がりになって自分の中に戻ってくる。さながらブーメランのように、です。「痛いの痛いの」の戻りです。
2連で人物と風景を出したのがいいですね。作者自身の思考をその少年に代理させて語らせる。
こういったパターンは知っていると大いに益になるでしょう。思考する内容もイマジネーションがあり、なかなか詩的でした。
何か、一歩前へ踏み出した気がします。今までの中で最もいいでしょう。もちろん佳作です。
アフターアワーズ。
タイトルがどこから来たか?ちょっと興味ありますね。
6 晶子さん 「問い」 11/15
「~~とは何ぞや!?」→「それは~~である」。これこそ正攻法の問いであり定義であります。
しかし対象は多面体で、一方向では説明できないので、定義とは権威的でありながら多分にいかがわしいものになりがちですね。
冒頭、この教授は生徒に思考訓練の糸口を与えたものでしょう。晶子さんにとってその糸口となった「動的平衡」。これは大変調べるに値するものでした。そこから始まる次の連。こここそがこの詩の本番と言えるでしょう。文中例として残忍な事件と「人でなし」が出てきます。仮に「人非人」と呼びます。彼は何か凶悪な事をしたからそう呼ばれます。ただし、一方で彼は命の危機に瀕した猫を救ったとします。しかしその優しさは全く取り上げられず「人非人」とされるのです。ここに採り上げられる定義づけの危うさは―少し悪意を以って言うとーレッテル貼りに近いです。結論的に、この詩を推測すると、以下のようになります。
「定義とは思考の有力な情報提供だが、それが全てではない点、注意する必要がある」
晶子さんはそういった面を分析し警鐘を鳴らしているように思えるのです。そして前半に戻ります。教授のアッケラカンとした言葉です。「私にもわからないのですよ」「誰かわかった人がいたら教えてくださいね」。非常に重要な教えだと思います。これは佳作だと思います。
7 相野零次さん 「しゅじんこう」 11/16
この詩での登場人物は3人です。
1 帽子売り
2 帽子売りの命を狙う“吹き矢男”
3 ヒロインを名乗る女
3のヒロイン女はあまり関係ないと思う。そして、しゅじんこうは2の男の吹き矢によって死んだとなってます。前半に「2は1を狙っている」とあるので、死んだしゅじんこうは1の帽子売りと考えるのが順当で、そうすると、しゅじんこうはいたようにも考えられる。読んでいると、どうも頭がこんがらがって落ち着かない気持ちになるのですが、この詩はどうも論理矛盾というか自家中毒的な気がしないでもないのです。ただし、そのイマジネーションは奇想天外で面白いものではあります。佳作一歩前で。
アフターアワーズ。
ご存じかもしれませんが、「ゴドーを待ちながら」という不条理演劇があります。ゴドーを主人公と見なすならば、彼は全く現れません。代わりに少年が彼の伝言を伝えます。「今日は来られないが、明日は必ず来る」。でも来ません。いわば「無・主人公」性なのですが、このゴドーを「神・未来・意義目的」と解釈する説はあります。この詩の主人公も無形の形而上的対象と見なすことはできそうです。
8 静間安夫さん 「無」 11/17
5連、6連に、まずヤマが来ます。前半はそれに至るまでの美しい事例です。圧倒的な「無」という背景に立つ対象。その内実は抗いの姿勢であるという。なるほど、なかなか斬新でユニークな考え方だと思います。こういった構図の喩えの中に美は存在する。言葉やそれを紡ぐ詩人も例外ではない。この詩の結論はそういった詩人の生き方に触れています。これを前半の喩えに準じて考えると、言葉の海といった無限の「無」に漂流して言葉を磨いた詩人といった存在は、我々凡人が漫然と使う言葉と違い、体力、知力、精神力を擦り減らすものであったでしょう。それは俗的なものからの逃走、解放、反抗であったかもしれません。芸術にとって“俗は無か”?
芸術とは「無」への反逆として生み出されるもののようです。佳作を。
評のおわりに。
「年内まで大丈夫」
「また会えるさ」
そう思った日もあった
―もう会えないくせに
では、また。