私小説的仙吉譚〜「小僧の神様」異聞〜 トキ・ケッコウ
0.はじめに
志賀直哉作「小僧の神様」に、最終章でこのような記述がある。
“作者は此処で筆を擱く事にする。実は小僧が「あの客」の本体を確めたい要求から、番頭に番地と名前を教えて貰って其処を尋ねて行く事を書こうと思った。小僧は其処へ行って見た。所が、其番地には人の住いがなくて、小さな稲荷の祠があつた。小僧は吃驚した。──とこう云う風に書こうと思った。然しそう書く事は小僧に対し少し残酷な気がして来た。それ故作者は前の所で擱筆する事にした。”
──この作品は、小僧こと主人公が彼にとっては高いために寿司を食えずにいたところを、たまたま彼のことを見知った貴族院議員の男に、こっそりと、誰からかとは知られぬまま寿司を奢ってもらい、もしやその人は「神様のような存在(稲荷様)ではないかと夢想する」という筋書きである。ちなみに、作者はその筋書きを最後の章で自ら『残酷な気がして来た』と否定している──
しかしこれでは、あまりに仙吉がかわいそうではないだろうか‥‥繰り返しだが、この短い小説の中、一定の文章量を持って作者はわざわざ「少し残酷な気がして」と書いている。しかしだ、と私は思う。本当に、そうだったのだろうか。実のところはその逆であったような気がしてしまう‥‥要するに彼は、本当は、きちんとした「神様」に逢いたかったんじゃなかろうか、と思うのだ。
‥‥ともあれ。
もうひとりの作者である私は、いま大きな疑問と当てどころのない責任感を持って、従来の小説のなかから仙吉の身柄を取り出し、自由にしてやりたいと願っている‥‥余計なお世話になるかもわからないが、つまりは彼が本当に欲したところの「神様」に遭わせてあげたい、と思うのだ。それで。
これから仙吉に「神様探し」の小さな旅に、取り急ぎ、出てもらうことにしようと思う‥‥なお以下の文中に登場する「神様」は、特別の断りがない限り敬称略つまり「なにがしの神」とした。また「然し」「所が」などの歴史的表記は現代向きに、ひらがなで統一しよう。
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1.『冷蔵庫(冷蔵箱)の神』との出会い
言うまでもなく仙吉は彼の手には届かない高価な握り寿司を食べたいと願って、実際にその願いは叶えられたわけだったが。
『とある疑念』が拭えるわけはなかった。意地の悪い作者の元でならそれでも構わなかっただろう‥‥だがここでの仙吉は違う。
「御免ください」古風な挨拶を残して彼の姿が銀色をした業務用の冷蔵庫の前にあった。いま彼は令和の寿司屋の厨房にいる‥‥まだ開店前であり他に人の姿はない。
「不思議だなあ」仙吉がつぶやいた。無理もない。彼が小説のなかを生きていた時代はおよそ大正と呼ばれた頃。ものの本によると冷蔵庫は氷を使った方式のもの(冷蔵箱)が料理店を中心に出回り始めていたらしい。それはさておき。
「こうやって冷やせば、なるほど魚の腐るのが遅くなるってもんだ」
仙吉には見慣れないアルミニウムのバットには刺身の柵(さく)が綺麗に並んで置かれてあった。手を触れないところは子供ながらに偉いところだがしかし顔の近さといったらよだれが垂れ落ちてしまうほどである。それを眺めながら彼はひとりごちた──ちなみに彼が小説中で店に入ったのは神田の寿司屋だったが、このような冷蔵設備を整えていたかについては詳(つまびらか)ではなく、あくまで類推だがきっと無かったことだろう。だから仙吉の驚きもある程度は理解できる‥‥ところが。
「これじゃあないんだよな」
仙吉が、つぶやいた。‥‥彼の目に『冷蔵庫の神』は、見えない、だからつぶやいたのではなく実際には彼は神に話しかけた、つもりだったのだが。──実は冒頭に『とある疑念』と書いたのは、仙吉には彼に寿司を食わせた神の、存在する確固たる証拠が必要だったのだ。
こうした訳で、ここで冷蔵庫の存在を目の当たりにしたのは、ちょっとだけ、その神の証拠を見せつけられたような気にさせられたのである。‥‥ただその存在があまりにも当時の彼にしてみれば、突飛で、にわかに受け入れられないことになった。
「まだ他に、(神は)いるよな?」ちょっと食指が動きだすような手つきを、なんとか制した仙吉が、そう言い、その場を後にするのだった‥‥ちなみにここだけの話、仙吉はこう思ったのかもわからない。
(こうやって一度にたくさんの寿司をこさえることができれば、やがては俺なんかみたいな庶民にも手が届くようになるのかも、わかんねぇ)
もちろんそれは‥‥重ねて言うけれども仙吉には、内緒の、ここだけの話である。
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2.『回転寿司の神』との出会い
次に仙吉が姿を現したのは「回転寿司」の店だった。仙吉にとってもちろんこれは初めての経験だった。いまでこそ珍しくない回転寿司だが、彼にとっては驚くべきものに違いない。
ところでここでの体験は「見る」ではなく「食べる」ことだった。そして(これは後々わかることになるのだが)
仙吉が訪れた店には‥‥『神』が、いたのだった。
ちなみにその神とは店にしてみればいわば『招かれざる客』だった。たまに来店する客の一人であり、浮浪者ではないようなのだが、彼のその身なりといい振る舞いといい、いかにも不潔で不快なものだったのだ‥‥ただそんなことはいまの仙吉には関心の埒外で、彼にとりその客はただただ『神』に見えた。それはベルトコンベアーの上をカタカタとかすかに皿同士が擦れ合う音を立てて流れて来るのを、この客がじいっと腕を組んでは眺めている様がいかにも、通、を感じさせ、同時に得たいの知れない威厳のようなものを彼に感じさせるから、なのだったが。
「おうい」と『神』がベルトコンベアー越しに職人に向かって声をかけた‥‥職人はさきほどから無言で眉間にシワを寄せている。
「中トロ、くれるかい?」
「レーンに流れてるの、とってもらえます?」
ぶっきらぼうな口きくのは、明らかに職人が苛立っているのだった。無理もないのであり、先ほどからこの客は湯飲みの茶を音を立てて啜りながらふらふらと指先をベルトコンベアーに向け、回ってきた皿のふちに指先を当て、取ろうとしつつすぐに手を離してしまう、そんな仕草を繰り返した。回転寿司でいちばんやってはいけない振る舞いだ。
「そうか、って、これトロじゃねえよなあ」
「あ、ちょっとお客さん、戻しちゃだめだ!」
険しい声が飛んできた。チッと舌打ちして皿を引き寄せ目をじっと近づけてから『神』がコトっと寿司を卓上に置いた。すでに他の寿司皿が二、三枚並んでいた‥‥その一部始終を、仙吉は見届けるのだった。すげえ。彼から思わず声が漏れ出た。ボサボサの長髪を掻き上げながら客はちゅっと醤油をさして寿司を箸でつまみ上げ、口もとに運んだ。もぐもぐと噛んでしばらく噛み続け、さも飲み込みづらそうな様相で顎を上げて嚥下した。
そうして不意に『神』が仙吉の方を向いた。
「どうした? きみ、好きなの、取っていいんだぞ?」
「あ、へい」
「なんだ、へいって、きみ、面白いやつだな」
「あ、いえ」
仙吉がモゴモゴと口もごった‥‥実際、彼にとってベルトコンベアーの上を回ってやって来る寿司はまるで周り燈籠のようであり、手を伸ばすさきから消えていくような錯覚に彼は襲われているのだった。それでつい手が皿に伸びないことはあった。
だが仙吉の本当の問題は、別なところにあり──それは小説の中でもそうだったように──仙吉には持ち金が無いのだった。ましてや時代が違ったために彼がガマ口の中に忍ばせているのは何銭と表面に刻まれた硬貨が数枚だけだった。もちろん相手にそんな事情を知る由もない。
「なんだ? 決められねってか?」と、『神』がまるで図星であるかのように顔を綻ばせて言った。薄茶色に汚れた歯の抜けてまばらになった様子が見えた‥‥それから仙吉に向かって。
「よかったらこれ、食いな」と、それまで卓上で温めるようにした数枚分の寿司を、仙吉の方に押して寄越した。
*
3.あらためて『小説の神』との出会い。
さて。ここまですごく駆け足で仙吉を『神探し』の観点から、彼にちいさな旅へと急いで行ってもらった訳なのだけれども。
どうだろうか‥‥正しいか正しくないかは棚にあげるとして、仙吉は彼にとっての神と、果たして出会えたであろうか。‥‥正直にいうと、私はきっと出会えなかったはずと思う。
ただひとことだけ最後に付け加えるとすれば‥‥私は「小説の神」とされる作者に、正直、好感を抱かなかった。
確かにものすごく上手なお話を、後世に残したし、何某かの教訓めいたものを読者に伝えることには大きく貢献したことだろうとは思う(ちなみにここで言う教訓とは、一つ、仙吉が感じたところの、現実世界の認識の危うさであり、もう一つは、その仙吉に人知れず寿司をおごってあげた末に貴族院議員の男が感じた、言われない、優越感、今風にいえば『マウントを取った』ことへの、恥ずかしさ、みたいなものであったかと思うのだが)。
実はそこが曲者で、あって‥‥この『小説の神』とまで賞賛された作者は、至極正直なところでは、その主人公である仙吉に実はこのように言いたかったんじゃないだろうかと。つまり。
「この世の中に、教訓ほど馬鹿馬鹿しいものは、ないんだが、もし必要とされるのなら、せめて教わるんじゃなく、自分の手と足で捕まえるんだ」と。
あえて幻想譚にすることを拒んだ、挙句、読者をその筆者の言わんとするところへと連れて行こうとしたのではないか、と。
──そのように、私ならば、思う。ちなみに私はこの小説の神から、教訓はもちろん、なんらかの感銘を受け取ったことは、残念ながらない。