MENU
1,703,266

スレッドNo.6670

I Owe You? 佐々木礫

俺は密度を愛せない。抽象的な言葉が嫌いだ。何も考えず、人通りのある街を歩いて、ありきたりなコーヒーを飲むと心が落ち着く。
しかし、そのカフェへと向かう道には、その平穏を乱すものがある。気がつくと、ビル群の隙間、入り組んだ路地裏に立っている。何度も来ている気がする。歩き方を迷う前に、足がもう知っている。曖昧な順路で歩いて行くと、その突き当たりには黒い板に銀のドアノブが付いた扉があった。ビル風の温度ではない、人の体温のような湿気を含む風が、一つの扉に向かうよう整流されており、俺の背中を押す。
促されるままにドアノブを捻り、見た目に反して拍子抜けするほど軽い扉を開く。
一歩入ると、景色が変わった。暗い部屋だ。
壁のステンドグラスが、拡散した鈍い光で微かに空間に明かりを届けている。
その壁の他には黒い光沢のターンテーブルが一台あり、女が一人、ステンドグラスを背にして椅子に座っていた。西洋中世の風合いの白いドレスを纏った彼女は、顔の輪郭がひどくぼやけており、若干の微笑みが感じ取れるだけだ。
「いらっしゃい」
女のか細い声が部屋に反響した。
俺は返事をせず、「座って」と言われる前から向かい側の席に座る。テーブルの上には何ら御馳走はなく、誰が回している訳でもないのに、ひとりでに回転している。
この虚無的な情景をして、俺に何を見せようというのか、苛立ちと共に考えるが、彼女は意味のあることを何も言わない。この空間での沈黙は、擦り切れるほど読んだ純愛小説のような味けなさへと、俺を導く。
俺が無言の合間に耐えきれず口を開く。
「今日は平日なのに随分道が混んでた。何かと思って調べたら、世間は祝日だったらしい」
この当たり障りのない会話のきっかけも、ただ薄闇に吸い込まれるだけだ。
なぜこんな仕打ちを受けなければならないのか、検討もつかない。しかし、何度も来ているうちに、分かったことがある。どうやら、この女は俺に気があるらしいことだ。
睨みつけても、あえて目を背けて時間が経つのを待っていても、彼女は薄ら微笑んだまま、この時間が彼女のささやかな全幸福の種であるかのように安らかな表情で俺を観ている。どこかで会った訳でもないし、そもそも存在してすらいないであろう影のような女の像は、紛れもなく俺に歪んだ愛を向けている。
「なあ、もういいだろ。なんの意味がある」俺は問う。「お前みたいな無口で薄気味悪い女は好きじゃない。強いて言うなら、お喋りで頭の軽い、優しい女が好きだ」
ゆらり、と彼女の胸元の辺りに蝋燭が灯った。その手には金色のメッキが殆ど剥がれ落ちた古い蝋燭台が乗せられている。
ターンテーブルの向こう側、女の目元は陰に隠れて口元だけが露わになった。白い喉、桜より薄い色味の、細い唇。初めて見た立体的な彼女の顔は、作り物めいていたが、その美しさに唾を飲んだ。
「綺麗なんだな。顔を見せてくれたんだ、次は何か言ってくれないか」
ここに来て初めて、少しの高揚が俺の心に芽生え始めていた。
i-o-u。彼女の口がそう動いたように見えた。
「なんだ?聞こえなかった」
俺はそう言って蝋燭の奥の彼女の顔を覗こうとした。
途端、キュルキュルという音が聞こえて目線を落とすと、ターンテーブルの回転がレコードの再生時のように早くなっている。次第に、ガタガタと、中心に一本生えたテーブルの足が軋み始めた。
どうにも不穏な様子に俺はこの得体の知れないものを怒らせたのかも知れないと思い、冷や汗が滲んだ。
彼女を見ると、テーブルの回転に同期するようにして、細い唇が千切れんばかりに動いていた。そこから音は漏れていないようだった。
いよいよ訳がわからない。俺にどうしろというのだろうか。それに、前回までならとっくにこの部屋から解放されている時間だった。募る不安に任せて、「いい加減にしてくれ!これ以上俺に関わるな!」と俺は叫んだ。
ピタリ、と彼女の唇が閉じた。ターンテーブルの回転音だけが静寂の中で響いている。
にわかに、彼女の手が蝋燭を少し持ち上げた。やはり人形のように細い鼻、茶色く薄い眉、そして——目だけは違った。見開かれた瞼、火の橙色を映した虹彩、そして、その光を滲ませているものは、涙だった。下瞼を決壊した雫は、蛇口を閉め損ねたように、そろそろと頬を流れ落ちて行く。
頭痛。俺は鋭い痛みを感じて頭を抱えた。
ああ、記憶!
溶けた時間の砂塵を含み、薄灰色に霞んだその雫は、追憶の縞をまといながら、彼女の胴体を伝って行った。そして、ゼンマイ式の鼠のように、ターンテーブルの下を通り、俺の足下へやって来た。
知っている、俺は飲まれる。この涙に、なす術は無い。
俺は決して目を瞑らずに、その大粒の涙を睨む。冷たい白の床の上、ぷるぷると、涙が揺れる。
実存を蝕み、微睡みに誘う、濃密で重い濁流。この記憶の圧縮物は、俺の瞬きを待っている!
「ねぇ」
前から女の声がする。迷い、涙から目を逸らす……
何か、変わった気配はしなかった。床の涙は消えている。
何が違う?
……ああ!向かいに座る王女の顔は、平たく茶色い木の「しゃもじ」!
もはや物言わぬ「人形」ですらなく。
水音。
足元は水浸しで、スニーカーは水を吸っている。
(ああ、雨の日のドレスコードは知らなかった。)

雨後。
彼女と歩いた竹林の、深い水溜りを思い出す。
――Don't be ridiculous.
そこに飛び込んではいけない。少年は彼女にそう言った。
"Your mother will get angry with you."
(ママが怒るよ)
それを聞いて、彼女は笑う。
"Maybe. But that's not a problem!"
(たぶんね。でも、大丈夫だよ!)
そして、彼女は無邪気に水溜りへ足を踏み入れた。
濡れて輝く林間の、隙間から差す眩しい陽光。
その光を反射した、泥を含んだ水飛沫。
ああ、記憶の、断片。
彼女は振り返り俺を見る。その瞳には、僅かな緊張、期待と誘惑。
(Stop it. You will weep coming home.)
君は帰り道で泣くことになる――俺は少年に、そう言いたい。
強張りながら一つ飛び、少年は彼女の隣へ立とうとした。
足が水に着く、その瞬間、視界が揺らめき、俺はまた元の部屋へと引き戻された。

ステンドグラスから差す光が少し夕焼けの色を帯びた部屋で、キュルキュルと、少し軋んだ音を立てて、ターンテーブルは回っている。
長い沈黙。俺は「しゃもじ」と向き合うばかり。
しかし、思った。
(君の顔が無くなって良かった。前は、違った。)
もし今の君に顔があるなら、あの靴が泥に塗れる頃には、
その虚ろな目で俺を見つめて、幼さを恥じる巧妙な口で言うのだろう。
「馬鹿みたい」
身の毛もよだつ浅はかな「深み」。空転する記憶と、それに伴う孤独。願ってもいないのに濁流のように押し寄せ、避けようもなく俺を飲み込む彼女を、俺は激しく憎んでいる。その憎しみさえ、愛として受け止め俺に笑いかけるあの女を前に、俺は徐々に抵抗の意思を失い、彼女に「所有」される。それがたまらなく恐ろしいのだ。

編集・削除(編集済: 2025年12月30日 02:14)

ロケットBBS

Page Top