感想と評 12/16~18ご投稿分 水無川 渉
お待たせいたしました。12/16~18ご投稿分の感想と評です。コメントで提示している解釈やアドバイスはあくまでも私の個人的意見ですので、作者の意図とは食い違っていることがあるかもしれません。そもそも詩の解釈に「正解」はありませんので、参考程度に受け止めていただけたらと思います。
なお私は詩を読む時には作品中の一人称(語り手)と作者ご本人とは区別して、たとえ作者の実体験に基づいた詩であっても、あくまでも独立した文学作品として読んでいますので、作品中の語り手については、「私」のように鉤括弧を付けて表記しています。
●ゆづはさん「夜明けの狭間」
ゆづはさん、こんにちは。今回の詩もゆづはさんの他の作品に見られるような、ややダークで幻想的な雰囲気のものですね。内容的には夜明け前の夢うつつの状態の意識を描写しているのだと思います。
夜の夢の中で「私」を訪れる暗いイメージや感情が「猛獣」と表現されているのでしょう。それは「私」の無意識から湧き上がってくる、「私」自身の潜在的な思いではないかと解釈しました。
「私」は不思議と「猛獣」に恐怖は感じず、それを鎮めようとします。それは一度は去っていきますが、またこっそりと忍び寄ってきて、身を寄せてくる。その「猛獣」は朝が来て日常の生活が始まるといなくなりますが、孤独な「私」はその温もりを愛おしく思っているのではないか、と感じました。最初から最後まで「猛獣」の姿は見えず、ただ声や気配、温もりといった視覚以外の感覚を通して描写されているのも、そのとらえどころのない存在感をよく表していると思いました。
1箇所読んでいて引っかかったのは第5連の最後の2行「朝の淡い光に/瞳を細めながら」とある部分です。前の連では「私」はまだ闇の中にあり、次の連で初めて目を開けますので、5連で「朝の淡い光」が出てくるのは時間的に順序が混乱しているように感じてしまいました。また、もし上に書いた私の解釈が正しければ、「猛獣」は夜の闇の中でしか棲息しない生き物ですので、ここはたとえば「朝の淡い光が/差し込むその瞬間まで」のように変えてみると良いのではないかと思いました。ゆづはさんの意図と違っていたらすみません。一つのアイデアとして参考にしてください。
全体的にとても好きな作品です。これまで拝見させていただいた作品より、詩の焦点がはっきりしている気がします。上の点を考慮していただくことを条件に、佳作とさせていただきます。
●aristotles200さん「存在の螺旋」
aristotles200さん、こんにちは。今回もaristotles200さん節全開の哲学詩で楽しませていただきました。
この作品は3部構成で、I.「帰還」、II.「否定」、III.「肯定」となっています。第I部では人間を含めた生物全般が生きることは必然的に他者を犠牲にする悪を含んでいるという考察がなされますが、第II部では第I部で提出されたような善悪の観念そのものを否定するメタ的な論理が展開され、すべては無意味だと主張されます。最後の第III部では、これまでの考察を受けて、すべての存在は無意味であるとの理解に立つ時、逆説的にすべてを肯定することができるという洞察に落ち着きます。これは世界の不条理を認めつつ、それを引き受けて生きることを求める、実存主義的な思想を表しているように思いました。タイトルの「螺旋」はそのような、一周回って別のレベルに立っている状態を言うのでしょう。
aristotles200さんの作品の良いところは、抽象的な思考を出発点としながらも、必ずどこかで具体的な生活の場面に話を着地させてくるところだと思います。今回の作品でも最後の部分では朝の駅の通勤風景につながって終わっているのが良かったです。ただし、なぜ大阪駅を「Gare d’Osaka」とフランス語で表記したのか、そもそもなぜ大阪駅なのか、その真意までは掴みきれませんでした。同じ大阪の心斎橋のビッグステップという施設にはカーブしたエスカレーターがあるそうですが、それも完全な螺旋にはなっていないようです。もちろん、たまたま「私」がそこにいたということかもしれませんし、本作品の内容からすると、そこに「意味」を求めてはいけないのかもしれませんが……
今回読んでいて違和感を覚えたのは、第I部の「帰還」というタイトルです。このタイトルだけ読むと、このパートでは語り手がどこか別の所から帰還してきたことを描いているのかと思いましたが、そうではありません。パート最終連に「カオス、混沌の世界よ/私は戻りたいと思うのだ/世界が始まる前の、原初の存在へ」とあるように、生物(それに伴う悪)が生まれる前の始原の状態への帰還を願っていることが分かります。では第III部でその「帰還」が果たされるのかというと、そうでもないように思います。第III部で描かれているのは始原の状態への帰還ではなく、現にあるがままの世界を肯定するということだからです。
したがって、第I部の「帰還」は別のタイトルに変えたほうがいいと思います。ただそうすると、面倒かもしれませんが他のパートのタイトルも連動して変える必要が出てくるかもしれません。いっそのこと、各パートはタイトルなしでローマ数字だけでも良いかもしれないとも思います。とても読み応えのある良い作品だと思いますが、タイトルは大切な詩の一部ですので、この点考えてみてください。評価は佳作一歩前です。
●トキ・ケッコウさん「或るカナリアの歌」
トキ・ケッコウさん、こんにちは。この詩の主人公は炭鉱のカナリアですね。昔の炭鉱では有毒ガスの発生を知らせるためにカナリアを坑道に入れておき、鳥の元気がなくなると危険を察知した坑夫たちはすぐに避難したそうです。文学の世界ではカート・ヴォネガットが炭鉱のカナリアのたとえを使って有名になりました。彼によると、作家や芸術家は社会の歪みを敏感に感じ取って知らせるカナリアのような存在だということです。
本作品ではカナリアの「僕」と坑夫長のセバスチャンの心の触れ合いを描く部分が大半を占めています。「セバスチャン」という名前から、外国が舞台として想定されていることが分かりますが、これはおそらく現代日本社会のさまざまな矛盾に苦しむ敏感な人々(もしかしたら詩人でしょうか)を描いているのでしょう。そのことは、*で区切られた第4部で突如日本の駒込の描写が挟み込まれることから分かります。作者の意図とは異なっているかもしれませんが、私はJapan Tokyo komagomeやsushi barという英語表記から、戦後GHQに接収され、東京裁判の被告人を収容していた巣鴨刑務所を連想しました(巣鴨刑務所は駒込のすぐ近くにありました)。したがって、この部分に出てくる男女は直接戦犯として裁かれているとは言えなくても、何かしらの形で連合国の支配の影響を受けていた人々と言えるのかもしれません。(ところで、komagomeの語頭のkが大文字になっていないのは意図的なものでしょうか? sushi barも行頭に来るのでSushi barとした方が良いと思います。)
この作品では人称表記が使い分けられています。メインの語り手であるカナリアは「僕」と表記されていますが、第5部では「ボク」が「あなた」に語りかけています。ここの「あなた」が死んでしまったカナリアの「僕」であり、「ボク」は「僕」に代わって新しく有毒ガスの見張り役を務める別のカナリアではないかと思います。社会においてカナリアの役割を果たすのは弱くて繊細な人々であり、ゆえに誰よりも先に犠牲になる存在ですが、一人が倒れても、その働きは世代を超えて受け継がれていく、そんな希望を感じることができました。
細かい形式的なことをコメントしますと、この作品は基本的には行分け詩の形式で書かれていますが、ところどころ非常に長い行があります。行分けパートと散文詩パートに意図的に分けているわけでもなさそうですので、あまりアンバランスにならないように行分けしてみるとぱっと見渡した時の印象も良くなると思います。詩においてはレイアウト的な部分も作品の一部ですので、ご一考ください。また、「‥‥」の表現は三点リーダーを2つ重ねて「……」と表記するのが一般的だと思います。
感動的な大作をありがとうございました。評価は佳作です。
●荒木章太郎さん「戦争」
荒木さん、こんにちは。この作品はそのものずばりのタイトルで、戦争についてストレートに書かれています。ところで、MY DEARではさまざまな政治的立場の方がおられると思いますし、各自がそれぞれの立場に基づいた詩を投稿するのも自由だと思います。したがって、私も評を書く際には思想信条への賛否によって詩の評価を上げ下げすることはしないように心がけています。そのことをお断りした上で個人的な感想を書きますと、戦争というものが単純な悪意からではなく、自分を守るための「正義感」が醸成されていった結果もたらされる、ということはまさにそのとおりだと思います。
本作品で「専守防衛の癖がつくと」というフレーズが繰り返されますので、作者にとっては鍵となる概念だと思います。2回繰り返されるどちらの箇所でも、「専守防衛の癖がつくと」結局は戦争になると語られます。「専守防衛」なのになぜ戦争になるのか。一見意味をなさないように思えますが、「自分たちは他国を攻撃しない。自らを守るためだけに軍事力を保有しているのだ」という論理は成り立たないのだ、ということかと思います。実際には攻撃を受けていなくても、他国に潜在的な「脅威」を見出して先制攻撃するということは十分にありえますね。
内容的に語られていることは一貫しており、説得力もあると思います。異論はあるかもしれませんが、個人的には賛同さえします。けれどもその上であえて申し上げると、詩作品としては何らかのプラスアルファがほしい、と思うのです。これは島さんも常々評で言っておられることですが、抽象的で一般的な「論」だけだと詩としては物足りないものになってしまいます。もちろん「論」があっても良いのですが、その上でそれをより具体的な個人の人生や感情に結びつけていくと、詩としてより力強いものになっていくと思います。ご一考ください。評価は佳作半歩前になります。
●喜太郎さん「雪国」
喜太郎さん、こんにちは。この詩はこれまでの喜太郎さんの作風とは少し異なるユニークな作品ですね。昔話に出てくるような、地方のお年寄り風の語り口で北国の冬について語られていきます。私は知りませんでしたが、詩中で使われる「ほだども」は秋田弁のようですね。この手法は人によって評価が分かれるかもしれませんし、多用しすぎるとくどくなりますが、私は今回の作品に限っては新鮮で良いと思いました。
内容は、北国の冬の厳しさについて語られていきます。私自身そうですが、北国を知らない他の地方の人間は、雪国の厳しい冬について、どことなくロマンチックな幻想を抱いてしまいがちなものだと思います。けれどもこの作品は冒頭から
北国の冬はな
白くはないんじゃ
灰色
空は灰色で
海も青くはないんじゃ
灰色に白い波頭が混ざるだけじゃ
とそんな甘ったるいイメージを打ち砕いてくれます。この導入はとても良いと思いました。これだけで北国の寒々とした暗い情景が目に浮かんできます。実際に作者が北国出身なのかは分かりませんが、とても説得力があるように思いました。
実際の北国の冬の暮らしは厳しく辛い。けれどもそんな寒さの中で心が熱く燃えるような恋愛がある……。この部分は、喜太郎さんがよく書かれる恋愛詩にもつながる気がしました。ここをもっと膨らませていただいて、北国の厳しい冬の中で育まれる恋物語も読んでみたいと思いました。
一点だけコメントしますと、タイトルが「雪国」となっているのに少し違和感がありました。本文には「雪国」という言葉は一度も使われず、一貫して「北国」と書かれています。たしかに雪についても書かれていますが、それがメインでもないようです。したがって、タイトルを「北国の冬」とするか、本文で雪についてもっと書き加えるかした方が良いと思います。ご一考ください。
短いけれども印象に残る作品でした。寒いこの季節にもぴったりだと思います。評価は佳作です。
●相野零次さん「終わらない世界」
相野さん、こんにちは。「世界の終わり」について書かれた作品はいろいろありますが、この詩は「終わらない世界」について書かれていますね。
この作品では異なる人称が使い分けられています。詩のメインの語り手は「僕」です。「我々」もこの「僕」を含んでいるのでしょう。これとは別に第4連では「私」が使われていますが、この「私」は世界のことであると思います。
この作品は端的に言えば(少なくともメインのパートでは)世界観について語っている詩であると私は解釈しました。私たちが自分たちの生きる世界をどう認識するかによって世界はその様相を変え、恐ろしい場所にも安心できる場所にもなります。このことをこの詩では「世界が来る」と表現しています。そして私たちの認識が変化すればそれについて世界も変わる。たとえ世界が永遠の昔から定められていたかのような顔をしてやって来たとしても、実際には世界に対する見方は瞬時に変化することもあります。第6連の「世界は三分で出来上がり/宇宙を回し続けるんだ」という詩行は、このことを表したユニークな表現と受け取りました。この連では「三分」をカップヌードルやウルトラマンに結びつけるといった、あえて陳腐な表現を用いて軽みを出しているのも良いと思います。
このようにして私たちが世界を繰り返し認識し直していくたびに世界は新たな顔で私たちを訪れる。その繰り返しは終わることがない……というのが、この詩のメインの部分で語られている内容だと思います。けれどもこの詩の面白いのは、それで終わらず最後にどんでん返しが来ることです。
最後から2連目で「僕」は目を覚まし、これまでの内容が夢であったことを悟ります。しかもそれは「キーボードを叩いて」創り出す(詩)作品であった、と語ることで、これまで語ってきた内容から二重に自己を遠ざけています。
そして最終行「僕は背中に世界からの視線を感じた」。ここで、詩の大部分で語られてきた主観主義的な世界観がひっくり返されます。それまでは「僕」が世界をどう見るかが問題だったのに、「僕」は逆に世界から見られていることを感じます。「世界は本人のものの見方次第だ」という単純な考えでは捉えきれない形で、世界が思わぬリアリティを持ってたち現れます。「僕」が世界についての考察をやめても世界は終わらない。では世界とは何なのか? この詩はその答えを宙吊りにしたまま終わりますが、これは意図的なものなのでしょう。
世界の認識についてユニークな視点で切り込んだ作品として、面白く読ませていただきました。評価は佳作です。
●多年音さん「雷鳴」
多年音さん、こんにちは。この作品は、表面上は黒雲から雷が落ちてくる様子を眺めているだけのように見えますが、これは人間社会のメタファーになっているのだと思います。そのことは2連目に出てくる「空に浮かんだ人々の穢れ」という表現が暗示しています。
社会の矛盾、不正や腐敗が溜まりたまってくると、最終的にそれは何らかの形で暴発するようになるのだと思います。そしてその犠牲になる人も出てくる。実際に雷に撃たれて死ぬ人は少数でしょうが、たとえば戦争や革命のような大激変が起こると、多くの人々の人生が狂わされてしまいますね。その影響が自分の身に及んでこないとは限らない、そんな不安が冒頭の「無防備でなくとも/自分に落ちる予感がする」という2行に表現されていると思います。
語り手はそんな暗い思いで雷雲を眺めながらも、その後に青空が広がり鳥の声が聞こえるようになることを期待しています。私は最初この詩を読んだ時に、少し受動的な印象を受けました。悪い社会を主体的に変革することをせずに、ただ時局が好転するのを待っているというのは消極的すぎるのではと思ったのです。けれども何回も読み返しているうちに印象が変わってきました。
多くの人々にとって、自分が何をしても社会は変わらないという諦めに似た絶望感や無力感があるのかもしれません。そうであればできることは、ただ時代が良くなっていくことを願いながら「待つ」ことしかできないのかもしれません。たとえそのような「解決」が、社会の悪が限界に達して爆発するということによってしかもたらされないのだとしても。最終連は、そんなやるせない諦念を表しているのかもしれない、と考えると、この詩はより深い味わいとともに読めるようになりました。
短いですが印象に残る詩をありがとうございます。評価は佳作です。
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以上、7篇でした。今年もMY DEARでは島さんはじめ多くの方々にお世話になりました。たくさんの素晴らしい詩との出会いを感謝します。みなさまにとって新しい年が幸多き一年となりますよう、祈念いたします。