感想と評 3/6~3/9 ご投稿分 三浦志郎
1 荒木章太郎さん 「横道坂48」 3/7
この詩の解釈上のポイントは、やはり顔と道です。初連の書き方は面白いですね。「坂道の顔をした少女たち」とはどういった人々でしょうねえ。ここは面白く想像させてくれます。 2連、3連はこの詩を代表する意味で、極めて重要かもしれない。上記した「顔と道」のことです。これを、仮に以下のように想像したとします。
「顔」……人の性格・属性・キャラクター・人間性。
「道」……上記項目から結果として導き出される、ふるまい・行い・生活態度。その集積としての個人の履歴。
詩は、こういった路線に沿って世間という付帯事項―「権力者・広告塔・ビラ」のあたりですーも含めて展開していくように思います。これらのことで、人の人生、概観できそうです。こんな風に考えると、多少、この詩に近づけるかもしれない。それ以降はこの詩のクライマックス。自己のことー「俺は/気がつけば~」以降です。現在と過去を交差させます。やむを得ないことながら、人は年と共に安定を指向するようになるでしょう。ところが、若い頃(青春時代?)は、こうではなかった。ちょっと難しいですが、”敢為“の精神とでも言いましょうか。案外、このあたりが詩のホンネかもしれない。終連こそタイトルであり結論。 「Again!」―「あの頃を、もう一度!」。ところで「48」は何でしょうねえ?年齢ということが考えられますが。もしも、そうだとするならば、まだまだ何でもできますね。もしも以上のような読み取り方で合ってるとするならば、今回は比較的、読みやすくて、よかったです。助かりました。佳作です。
2 静間安夫さん 「亡命」 3/9
これは難しいテーマですゾ。まずは定義をさらっておきましょう。受け売りで書きます。
「民族・宗教・思想・政治的意見の相違などから自国において迫害を受け、または迫害を受ける危険があるために、
外国に逃れること」
この詩も概ね、この定義を踏襲して描かれています。ところで、調べるとわかるのですが、受入国の事情、行った国での住居・職業・収入・人間関係等、急激な変化がやって来て、けっして平穏無事とは言えない。それ相応の下地がないと無理。命の危険もあり得る。詩はそういった事情も背後に背負って綴られるかのようです。(同志・同僚・友人でしょうか?)この語り手もそうと察して、相手に対して諸手を挙げて賛成、といった感じには取れないのです。批判と取れるフシもある。さて、この人は実在か否か?なんとなく、想像上の亡命者といった気はします。甘め佳作とします。
が、調べて行くと冒頭書いた通り、この詩が示す深度・範囲でもなお覆いきれない、といった思いも同時にするわけです。
アフターアワーズ。
調べると日本人の他国への亡命者も多い。概して社会主義者・共産主義者が多いようです。
戦前はファシズム下の弾圧。戦後はハイジャックなどの赤軍テロリスト系です。強制労働で病死やスパイ容疑で処刑。今でも国際的指名手配など。個人差ありですが、あまり良い結末はなかったです。アインシュタインも広義の亡命者ですが、彼は原爆張本人のイメージがかけられやすいですが、ぎりぎりセーフ。ただ示唆はしたらしい。彼などは亡命としては幸福なほうでしょう。
3 晶子さん 「多年草(クレマチス)」 3/9
はい、園芸に全く無知なミウラはタイトル両方調べました。結果……、
① 多年草……種まき後、開花を2年以上繰り返す。(世話なしで、いいかも?)
② クレマチス……「蔓性植物の女王」と呼ばれる。名前は知っていたが、蔓性とは知らなかった。
写真参照。まあまあきれい。
では、詩に行きます。初連です。こういう感じで、主旨とは少し違う外し方は凄くカッコイイです。
詩でも小説でもー特に最初や最後にーこういった外し方を効果的にやるのは、僕に言わせると、凄くカッコイイのです。そんな実例でした。あと、詩の主人公を「僕」で書くのは晶子さんの場合、やや珍しく、トピックスになるかもしれない。あと、この詩の不思議さは、タイトルとしながらも、それらに直接関係ある事はひと言も書かれていない点です(終連に、わずかに“それらしい”ことのみ)。
これ以降は僕の想像が始まります。上記の①、②を頼りにします。ちょっと失礼な言い方になりますが、②のクレマチスですが、多年草で春先に咲く花であれば、何でもよかった、と僕は見てます。晶子さんは①の多年草こそ欲しかった。そういった推測です。
多年草はー園芸技術論は措いて極論するとーいちど植えれば、毎年咲く。世話なし、安心。
―で、この考えは詩中、「僕」が「君」に対する今までのアプローチと奇妙にも符合するのです。
証拠を挙げます。「忘れちゃったのかも知れない」「離れていってる」「いるから安心して/君を忘れてる」 +終連全部。ただし終連を読むと、これからの予感もありそうですね。
以上、見て来たところでは、「僕→君」(主)、「多年草」(従)のダブルイメージ、ダブルミーニングという構図です。見ようによっては、タイトルすらも冒頭書いたように、ある種の”外し方“かもしれないです。今回は僕の全くの勝手な推測ですので、違っている公算も高いのです。その場合は読み流してください。しかしながら、この詩は僕の推測の範囲においての甘め佳作とします。
アフターアワーズ。
「違くて」は、仮にも公式書き言葉では使わないでしょう。何かの誤字でしょうか?
(違ってor 遠くて、か?)
評のおわりに。
たまにまだ寒い日もあるけれど、だんだん暖かくなるのが楽しみな今日この頃です。
ところで、JR運賃改定。月2~3回、県の端から端までー遊びだけど―通う自分としては、
ちょっと痛いです。 では、また。