3/24~3/26のご投稿分の評です。 滝本政博
わたしの批評期間の投稿はお一人でしたので、お先に失礼します。
3/24~3/26のご投稿分の評です。 滝本政博
三番目、四番目 人と庸さん 3月24日
電車に乗って目を瞑っていると、前に進んでいるのか後ろに進んでいるのか、どちらかわからない感覚になることがあります。そんな体験から発想された詩かなとおもいました。
詩を意味で追って読んでいくことは、ある意味つまらないことかもしれません。それより全体でとらえる事の方が大事かな。その伝でいうと、不思議で面白味のある作品でした。でもそれだけだと評にならないので、以下少し書きます。
<ここでは三番目の顔でいなければならぬ
出発点と
終着点の
ちょうど中間の顔で>
出発点とは生まれる事。
終着点はやはり死ぬことでしょうか。
この連を読むと死の顔が四番目の顔ということになり。電車に乗っている中間は生きて生活していることの比喩になるのかな。
タイトルの「三番目、四番目」とは、「生きる事、死ぬ事」と言い換えることが出来るのかもしれません。
それを踏まえて読むと一連の
<三を四に感じたり
四を三に感じたりするので>
というのも意味深な感じです。
<目を開けるといつも見当違いの駅に降り立っている>
<久しぶりの電車通勤なので
わたしはすっかり作法を忘れていた>
<わたしはまだまだひよっこで>
作中の話者は生活になじめず、生きにくさを抱えていると言えそうです。
作品中、「見る」こと、あるいは「見ない」ことについて大きくスペースを取っていますが、これが現実世界の何に対応しているのか分かりにくいです。あるいはそのような考えを抜きにして、作品世界の出来事と割り切っても、効果的に書かれているかと言うと少し疑問です。この辺は推敲することによってさらに良くなる可能性を秘めていると言えるでしょう。
あと身体感覚の描写で言うと
<カーブにさしかかり
吊り革は斜めに傾ぐが
我が身は水平に保とうとする
それにかかる力がぎしぎしと
ぎしぎしと音を立て
握る手とふんばる足の緊張が
わたしの三番目を形成してゆく>
この連は秀逸だと思いました。感じが出ています。
最終連は申し訳ないですが、ちょっと意味が取れないというか、文意がわかりませんでした。勿論、作者にはこの連がなければならない理由があると思うのですが。すみません。最終連が無い方がまとまりが良いと思います。が、特別な思い入れというか、伝えたいことがここにあるのだというのなら、読者に分かるようにそれを書くべきです。でも、ここは難しい問題で、分かりやすい詩を書けと勧めているわけではありません。自分が感知していることを詩で表現することが第一に肝要です。
なにか、とても惜しいところまで行っている作品だと思います。