感想と評 5/5~7ご投稿分 水無川 渉
お待たせいたしました。5/5~7ご投稿分の感想と評です。コメントで提示している解釈やアドバイスはあくまでも私の個人的意見ですので、作者の意図とは食い違っていることがあるかもしれません。そもそも詩の解釈に「正解」はありませんので、参考程度に受け止めていただけたらと思います。
なお私は詩を読む時には作品中の一人称(語り手)と作者ご本人とは区別して、たとえ作者の実体験に基づいた詩であっても、あくまでも独立した文学作品として読んでいますので、作品中の語り手については、「私」のように鉤括弧を付けて表記しています。
●aristotles201さん「笛」
aristotles201さん、こんにちは。これは全体主義的なディストピアを描いた作品ですね。タイトルにもなっている「笛」とは何か。一口に笛と言ってもいろいろな種類がありますが、行進のリズムを取る「ピッ……ピッ……」という音が描写されていることから、これは運動会などで用いられるホイッスルであると思われます。この笛の音がどこからともなく聞こえてくると、人々は列をなして行進し始める。何のための行進なのか、いつ終わるのか、そういった意味を教えられないまま、人々がひたすら行進していく様子は、得体のしれない恐怖を呼び起こします。
その後で兵隊が登場し、人々の行進を力づくで継続させていきます。軍隊の登場以前から行進が始まっている、しかもそれが学校の運動会を思わせるような笛の音によって始まっているという流れは意図的なものかと思いました。つまり、国家が国民の生活を暴力で統制し始める前に、すでに支配は始まっているということでしょうか。
第7連でスマホに緊急警報が鳴ります。この描写から、これが昔の(たとえば太平洋戦争時の)話ではなく現代の話であることが分かります。表示される言葉が英語であるのは、外国勢力の存在を暗示しているのかもしれません。第9連で人々が環状線を「右回りに」歩いているというのは、国家の右傾化を表しているのではないかと思いました。
このように前半では笛の音に合わせた行進というシンボルを用いて、全体主義の支配を描いています。しかしこのままでは終わりません。後半では人々がそれに抗い、軍隊と行進から自由になる様子が描かれていきます。そしてあの笛が最後にもう一度登場し、
笛の音は
最後に
長く、消え入るように鳴り響き
消えた
と終わりますが、これは全体主義の終わりを意味しているのでしょう。
状況設定はユニークで面白いと思いましたし、その中にいろいろな形で人々が段階的に支配されていく様子が描かれていて、前半はとても読み応えがありました。それに比べて後半は、最後の「解放」に向かうプロセスに今ひとつリアリティが感じられませんでした。実際に行進していた群衆が一斉に監視の兵士たちに襲いかかったとすれば、おそらく多くの血が流されることと思いますし、支配者側がこれで簡単に引き下がるとも思えません。最後に解放の希望があるというのは大切なメッセージだと思いますが、その勝利があまりに簡単に得られてしまうと、かえって説得力が弱くなってしまうように思います。
ただ、現行のままで何か破綻があるわけではありませんので、上記の点について考慮していただくことをお願いした上で、評価は佳作とさせていただきます。
●松本福広さん「オボロゲアキハバラ」
松本さん、こんにちは。この作品はポスト・アポカリプス的な内容の散文詩ですね。サイバーパンク風味もあります。
物語の舞台は人類滅亡後の秋葉原(タイトルに従えば「アキハバラ」)です。核戦争が起こったのでしょうか(「本当の星を知らない私たち」という表現は核の冬を表しているように思いました)。アキハバラはプログラムされた機械が自動で動き続ける「シティ・イン・ファントム」(幻の中の街)になっています。そこに住むアンドロイドたちは人類がいた頃の記憶を果てしなく再生しながら暮らしていますが、そこにいろいろな誤情報のノイズが混入している(「Tokyoはドナウ川流域にあった」など)のが面白いですね。AIのハルシネーションを思い起こしました。
アキハバラの住民たちは最後の人間アダムの命日に彼の「慰霊祭」を行いますが、そこでは街中に銃が乱射されます。それは「無軌道な暴力こそが人間なんだという理解」を表している、と語られますが、ここはシニカルなユーモアを感じました。
最終連の
私たちは
鎮魂も祝祭も
滅びることも忘れたのです。
の部分は、人間性の内実を失い、外側だけを模倣した機械文明が意味もなく存続していく絶望的な未来像を描いていますね。(ただし、このラストは最初の段落で語られていた「世界の保証期限は、交換部品がなくなる頃かな?」と矛盾するようにも思いますが。)
昨今の急速なAI技術の進歩や世界各地における武力紛争を目の当たりにすると、ここで描かれている光景がまんざらフィクションの中だけの世界と言っていられないような、そんな気にさせる作品ですね。アキハバラの具体的な描写も興味深かったです。評価は佳作です。
●三津山破依さん「風はまだまだ冷たい」
三津山さん、こんにちは。これは短いですがとても興味深い作品ですね。
ストーリー自体は非常に単純です。「ボク」は川辺でひっくり返った蛙を見つける。そのそばに座りこんで食事をし、食べ終わると蛙を起こそうとする。これだけです。しかし、繰り返し読むうちに、いろいろなことに気づきます。
まず、「ボク」はひっくり返った蛙を見つけても、すぐにそれを助けようとはしません。そばに座ってのんびり空を見上げながらフライドチキンを食べ、お茶を飲みます。かと言って無慈悲に蛙をそのまま放っておくのではなく、食べ終わってからそれを起こそうとします。この詩の主題はこのようなモラル的曖昧さではないかと思いました。
そう思って読み直すと、どっちつかずの曖昧さはこの詩の他の箇所にも隠されていることが分かります。まず
この川の流れは、
穏やか、それとも
激しいものなのか。
の連。おそらく「ボク」の目の前の川は、穏やかとも激しいともつかない中間の速度で流れているのでしょう。オレンジ色の雲も、夕焼けなのか朝焼けなのかの判別すらつきませんが、いずれにしても昼と夜の境目の時間帯を表しています。
しかし、すべてが曖昧模糊とした世界において、ただ一つ曖昧でないものがあります。それは風です。風だけは「まだまだ冷たい」と「ボク」は感じます。そしてその風が鳴るのを合図に、蛙を起こそうとします。
私は、この風は「ボク」の心を映す鏡のような役割をしているのかと思いました。「ボク」は風すなわち自分の心がまだまだ冷たいことを自覚して、蛙を助けるという倫理的なアクションを起こそうとするに至ったのではないでしょうか。ただ、
油のついた指をなめ、
さて、ひっくり返そう。
というラストに至っても、最後まで「ボク」の心に切迫感や強い道義的責任感は感じられません。「風はまだまだ冷たい」ということなのかもしれません。
前回の「春なのに」同様、繰り返し読んでいくと、切り詰めた表現の間からなんとも言えない味わいがにじみ出てくるような作品でした。ことばが凝縮されたこのスタイルはとても良いと思います。評価は佳作です。
*
以上、3篇でした。今回は作品数は少なかったですが、読み応えのある詩との出会いを感謝します。