太平記・もうひとつの武士の姿 三浦志郎
以前の「評のおわりに」で、太平記より、鎌倉幕府滅亡時の主従の美学を記しましたが、
今回も太平記からですが、少し毛色の変わった挿話を紹介したいと思います。
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太平記描く。
同じく鎌倉幕府滅亡時。戦も酣(たけなわ)になり、総帥・北条高時は彼の秘蔵っ子・”最終兵器“の家臣を召しました。
「嶋津四郎を これへ」。
彼に出陣の命を与え、天下の名馬”白浪“を授けて送り出します。嶋津は名馬にまたがり、赤地錦の直垂・黒糸縅の大鎧に大弓を携え、さっそうと敵の前へ姿を現しました。彼の凄まじい働きを味方は期待したでしょう。その雄姿に敵は思わずたじろいだのです。
「その出で立ち、さては名ある者かな、敵ながらあっぱれ剛の者、お相手致そう」。敵も武勇自慢が立ちはだかります。
ところが、ここに一大異変あり。
当の嶋津、馬から降り、兜を脱ぎ、刀を置き、弓を折り、地面にひれ伏しました。吐いた言葉がまさに驚愕!「これにて降伏仕る、
許されよ!」。味方は落胆「あな!嶋津、裏切り者よ!」と罵声を浴びせかけ、敵も驚き「きたなし!尋常に勝負せよ!」と挑発します。
これは、一種の物語である太平記の作者が仕掛けた架空話のような史実のような、境界を行くエピソードか?ただ、その名前、後の薩摩の島津家を匂わす名前。事実、島津家はその祖は鎌倉武士であること紛れなし。何がしかの縁ありや!?しかし、これは太平記作者のフィクションと見て、まず間違いないでしょう。ある意味、物語の意外な要素を担ったか?勇者と目された嶋津の内面にも意外な所があったのか?そのこころは「命あっての物だね」といった考えは時代を問わず、生き物としてのヒトの本能でもあったはず。”生きるに越したことはない“はず。その本能が断たれた時、人はやむなく名誉の為に死する時もある、この例はその逆。生の重みに比べれば、名誉などは軽いもの。名誉を捨ててでも命を繋ぐ。当時の武士でもそういった人間像・価値観はあったはず。ここではその是非は問いません。けれども、こちらのほうが現代の生き方に近い気はするのです。歴史とは仔細に見てみると、現代との回路は必ず何処かにある、そう思わせるもののようでした。