感想と評 6/2~4ご投稿分 水無川 渉
お待たせいたしました。6/2~4ご投稿分の感想と評です。コメントで提示している解釈やアドバイスはあくまでも私の個人的意見ですので、作者の意図とは食い違っていることがあるかもしれません。そもそも詩の解釈に「正解」はありませんので、参考程度に受け止めていただけたらと思います。
なお私は詩を読む時には作品中の一人称(語り手)と作者ご本人とは区別して、たとえ作者の実体験に基づいた詩であっても、あくまでも独立した文学作品として読んでいますので、作品中の語り手については、「私」のように鉤括弧を付けて表記しています。
●じじいじじいさん「じゅんばんこなんだね」
じじいじじいさん、こんにちは。(ほぼ)いつも子ども目線からの詩を投稿してくださっていますが、今回は生命のサイクルについての作品ですね。
タンポポが大人になってヒマワリになるというのは、面白い視点ですね。確かにどちらも黄色くて丸い花で似ていますが、これまでそのようなことを考えたことはありませんでした。「タンポポはタンポポ、ヒマワリはヒマワリ」という大人の固定概念を打ち破ってくれる想像力は素晴らしいと思いました。しかも、子どもならそういう発想をするかもしれないという説得力もあります。もちろん、現実にはタンポポは綿毛を作ってそれが種を運んでいく、ということをいつかの時点で子どもは学んでいくことになると思いますが、この作品ではそれ以前の年齢の子どもが語り手として想定されているのかもしれません。
ただこの作品、何度か通読してどうもしっくりこない印象を受けました。なぜそう感じるかというと、タイトルも終行も「じゅんばんこ」つまり生物の世代交代という主題を表現しているからです。最終連では人間の例とも比較しながらこのことが強調されていますが、これによって上述の「タンポポが大人になってヒマワリになる」という発想の面白さがぼやけてしまっていると思うのです。ここは「タンポポ→ヒマワリ」のイメージに集中して最後まで書いたほうが、焦点がはっきりしてよかったのではないかと思います。前回の「ずっと」では桜の花が一年中咲き続けるという、これまた実際にはありえない面白い発想が見られましたが、あちらの作品はこの主題に集中して成功していました。
せっかくの興味深いイメージを最大限に活かす形で推敲してみることをおすすめします。評価は佳作半歩前です。
●虹乃衣里絵さん「歩み」
虹乃さん、こんにちは。初めての方なので、感想を書かせていただきます。
この作品は詩人の自伝的な「歩み」を記したものになっています。これが虹乃さんご自身の体験なのかそうでないのかは分かりませんが、冒頭に述べましたように、評者はこの作品の「私」を作者ご本人とは区別して読んでいます。
いずれにしても、ここに描かれている内容は、詩人の多くは身につまされるのではないでしょうか。現代社会において詩の評価は控えめに言っても高くはありません。「ポエム」といえば揶揄表現です。それでも書かずにいられない、それが「詩人」なのだと思います。
ですから、ここに記されている内容や想いについては共感しかありません。ただし、作品として見た場合、さらにブラッシュアップする余地はあるかと思いました。たとえば第五連では詩作の道具がペンからキーボードに変わったことが書かれていますが、最終連ではまたペンが登場します。そもそも「ペンは剣にも勝る」(ペンは剣よりも強し)は使い古された常套句ですので、別の表現を考えた方が、より読者の心に響くかと思います。
とは言え、詩人としての矜持をひしひしと感じる力強い作品でした。ぜひまた書いてみてください。
●上原有栖さん「デザイア」
上原さん、こんにちは。生傷の絶えなかった子ども時代、瘡蓋を剥がして親に怒られた記憶は評者にもあります。傷の治りが遅くなると言われても、むず痒くてつい剥がしてしまう。案の定、剥がした痕から血がにじみ出てくる。けれどもぺりぺりと瘡蓋を剥がすときの快感は独特のものがありますね。
本作品もそのような幼少時の記憶を呼び覚ましながら、瘡蓋を剥がす行為を描いています。滲み出る血の色や匂いまで克明に描いていく詩行からは、どこか動物的な魅力を感じました。
そしてこの作品は、単なる一つの習癖を描写するのみならず、もっと深い人間の欲望について語っているように思いました。それはたとえばリストカットのような、文字通り自分の肉体を傷つける行為だけにとどまらず、もっと広い意味で自分を傷つけることに快感を見出す、自己破壊的な欲望(デザイア)として捉えることができると思います。その欲望は自己とは区別され、心の奥からこちらを見つめている存在として描かれていますが、無意識のようなものなのかもしれません。自分のうちに、自分にもコントロールできない何かが潜んでいるという不気味さがよく現れた作品でした。評価は佳作です。
●相野零次さん「あの頃」
相野さん、こんにちは。これは不思議な雰囲気を持つ作品でした。
この詩の語り手である「僕」は、出生後すぐに病気で亡くなる新生児という設定になっています。これはもちろん、現実にはありえない、フィクショナルな設定ですが、詩ではもちろんそうしたことも可能ですし、面白い視点だと思いました。まもなく死のうとする幼児がその非常に短い人生の記憶を振り返っている、そんな内容ですね。
ところが、第三連では「この詩をかいているのは/僕じゃありません」とメタレベルの言及がなされます。そして第四連では「この記憶も/僕のものじゃないかもしれません」と語られます。もはや語り手が誰なのか、「僕」が語っている内容が正確なものなのかさえ、曖昧になってきます。
しかし、私はこの曖昧さがこの詩の魅力であるように感じました。当然いろいろな解釈ができるでしょうが、私はこの詩の語り手は亡くなった子どもの親であり、言葉を発することもできないまま亡くなった我が子の思いを投影して語っているのではないかと考えました。そのような「記憶」は、当然子ども本人のそれと同じである保証はありません。けれどもそれを痛いほど分かっていても、あの子は短い人生を頑張って生きた、愛されて幸せだったとせめて考えたいという、親の切なる思いと愛情が感じられました。
タイトルの「あの頃」ですが、これは我が子の死からある程度の年月が経ってから、親が当時を振り返っているということかもしれないと思いました。
味わい深い作品をありがとうございました。評価は佳作です。
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以上、四篇でした。今回も素敵な詩との出会いを感謝します。