6/16〜6/18 ご投稿分の感想です。 紗野玲空
6/16〜6/18にご投稿いただいた作品の感想・評でございます。
素敵な詩をありがとうございました。
一所懸命、拝読いたしました。
しかしながら、作者の意図を読み取れていない部分も多々あるかと存じます。
的外れな感想を述べているかも知れませんが、詩の味わい方の一つとして、お考えいただけたら幸いです。
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☆「言葉ひろい」 三津山破依さま
三津山破依様、こんにちは。
御投稿ありがとうございます。
冒頭、紙の頁を繰り、見慣れない言葉をノートに書き留めるという、古典的な、血の通った読書と創作の風景が描かれています。
〈シャーペンをノックした。〉という具体的な音を響かせた第1連のあとの〈探す。〉というフレーズがとても印象的です。
一拍置いてつながるこの展開の妙によって、言葉を探す作者のまなざしが浮かび上がり、読者は一気に作品の世界へと引き込まれることになります。
カチカチという金属的なシャープペンのノック音を合図に、読者もまた、この詩の「ものがたり」へと誘われ、ともに何かを探し求めていくような感覚を覚えます。
続く第3連では、ストイックに言葉を探すはずが、ついつい「ものがたり」そのものに夢中になり、気づけばペンの代わりにティースプーンをくるくると回しているという、少しユーモラスな場面が登場します。
そのあと、〈慙愧の念に堪えない。〉という、やや大仰で硬いことばがとても利いていると思います。
作者の生真面目さや、我を忘れて没入してしまうことへの照れ隠しのようなものが想像され、作者のキャラクターをもチャーミングに浮かび上がらせているように感じます。
第4連から、詩の景色は一変し、現代のデジタル社会に対する批評性が前面に押し出されます。
子どもたちが「未来とチャット」する環境の中で、作者もまた紙の手触りから「ガラス」の画面へと移行します。
ここで見事なのは、第1連冒頭の〈何度も何度も。〉(頁を繰る)という反復が、ここでは〈何度も何度も。〉(ガラスをスワイプする)というデジタルな反復へと、転換されている点です。
腱鞘炎になるほどのスワイプや、「手首のスナップ」という現代的な身体感覚の切り取り方は、時代の変化を皮膚感覚で伝えていると感じます。
ここで展開される〈新しいものが続々と。〉訪れる状況や、〈レトリックのイノベーション。〉というフレーズは現代的で魅力的ですが、やや概念的(説明的)に響くきらいもあります。
もし可能ならば、その新しいレトリック、あるいは次の連に登場する「ノイズ」とは、具体的にどのような言葉の形をしているのか。
具体的な現象が少し描写されると、作者が抱く危機感や違和感がより立体的に読者へ伝わり、詩情がさらに深まるのではないかと感じました。
後半の〈見つける。〉という一語は、前半の〈探す。〉という強い希求が、ついに実を結んだ瞬間として配置されていますね。
溢れる情報の中で、作者は
「スクラップ・アンド・ビルド」(Scrap and Build)……古くなったり非効率になったりしたものを廃棄(スクラップ)し、新しいものに置き換えて再構築(ビルド)する一つの手段として、
〈シャーペンをボールペンに替えた。〉と告げます。
消せる筆記具から、一度書いたら消せない筆記具への移行……。
ここには、消費され、すぐに消えていくデジタルのタイムラインに対抗し、自分が本当に残すべき確かな言葉を「見つけた」のだという、書き手としての強固な意識が反映されていると感じました。
終連……日々上空からどこからともなく飛んでくる無数の「フォント」に目を通しながら、それらを「温故知新」として拾い集めるという着地は実に見事です。
作者は、新しいデジタル表現を単に拒絶するだけではなく、人類の言葉の歴史の延長線、あるいは新たな記号の誕生として面白がっているようでもあります。
「拾い集める」姿勢は、タイトルの「言葉ひろい」という素朴な営みへと美しく回収されているように思いました。
アナログからデジタルへと移り変わる時代の中で、言葉を愛し、ボールペンを片手にノートに向き合い続ける表現者の喜びに共感を覚えました。
御作、ふんわりあまめの佳作とさせていただきます。
ありがとうございました。
※閑話ひとつ
私は旅の中で現場に足を運び、取材をして詩を書くことがほとんどです。その土地の歴史や風土、人々がはらむ宝石のような言葉をひろってくるのが、私の何よりの楽しみです。
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☆「人形哀詩」 星影流さま
星影流様、こんにちは。
御投稿ありがとうございます。
冒頭、〈どうしてそこにあるのだろう〉という素朴な疑問から始まります。
煤や泥に汚れながらも、ただじっと通行人を見上げている人形の姿が、〈孤独の海に溺れながら〉という言葉によって、単なるモノではなく、生きた感情を持つ存在のように読者の胸に迫ってきます。
続く第3連から第5連にかけての、畳みかけるような「問い」の連鎖が印象的です。
〈いつからそこにいたのだろう〉〈どうしてそこに辿り着いたのだろう〉という疑問を重ねながら、最終的に〈その理由も何も 僕は知らない〉と突き放す……。
この「知らない」ということばからは、目の前の現実(人形)をただじっと見つめる「まなざしの深さ」が伝わってきます。
第6連で〈見たい空はきっと / 一緒に遊んだあの子の笑顔の / その向こうに有る筈だ〉と展開されます。
人形が本当に求めているのは、今見上げている物理的な空ではなく、かつて愛されていた記憶そのものであるという洞察。
このフレーズによって、人形のくすんだ瞳の奥にあるはずの、過去のきらめきが立体的に浮かび上がってきます。
さらに、第7連の〈泣きたい涙を持っていないから〉に続く表現も巧みです。
人形には流す涙がない、だからこそ〈視線は涙の海を泳いでいるのだろう〉という詩的レトリックは、人形の乾いた哀しみを、逆説的に、深く表現していると思います。
終盤、詩の景色は「僕」の動作へと移行します。
横断歩道を渡りながら〈後ろ髪を引かれる〉という断ち切り難い未練。
〈振り向いたら感動の再会があって欲しい/涙を湛えた瞳をその子が拭って欲しい〉という願いの表白からは、植え込みの根元に佇む「人形」が、実は、作者の心の中に今も鮮烈に生きている「現実の誰か」の姿なのではないか……。
それを「人形」と認識せざるを得ない作者の心の痛みや切なさが想像されます。
このように道端の傷ついた人形に自らの痛みを投影せざるを得なかったのだと読み解く時、振り返ることもできずに夕陽へ向かう「僕」を、どこかで見守っているであろう瞳を、かりそめの人形の瞳の中に、読者も探してしまうのです。
既に完成度が高い作品ではありますが、ブラッシュアップの参考までに……。
「僕は知らない」というリフレインは作者の誠実な距離感を表していて魅力的ですが、連を跨ぎ、同じフレーズで落とされているため、少し勿体ないようにも思います。あとの方を、たとえば〈僕には届かない〉など、ほんの少し揺らすだけで、詩の面立ちも変化していくように思います。
また、〈その向こうに有る筈だ〉という部分ですが、ここをあえてひらがなで〈あるはずだ〉と開いて(ひらがなにして)みるのはいかがでしょうか。漢字の「有る筈」が持つ硬さが取れることで、あの子の笑顔や、その向こうにある見たい空の優しさ、切なさが、より素直に読者の心に染み込んでいくように感じます。
後ろから2連目は、映画的な美しいシーンですが、「その子(=かつて人形と遊んだ子、あるいは作者の心の中の誰か)」が、自分自身の涙を拭っているのか、それとも人形の瞳を拭ってあげているのか、読者によって少しだけイメージが分かれる(そこが重ね合わせの妙でもありますが)部分かと思います。
ほんの少しだけ言葉を整理すると、作者が見せたい「奇跡の景色」が、よりクリアに読者の脳裏に浮かぶかもしれません。
この美しい世界観をさらに立体的に見せるための、ささやかな調律としてご検討いただけたら幸いです。
初めての方ですので感想だけ述べさせていただきました。また書いてみてください。
ありがとうございました。
※閑話ひとつ
小林秀雄の『考えるヒント』の中に「人形」というエッセイがありました。
人形を通して窺い知る、人の悲しみが語られていたように記憶しています。
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☆「すれ違う、」 石川ぼうずさま
石川ぼうず様、こんにちは。
御投稿ありがとうございます。
冒頭、〈とりあえず私の話を聞いてください〉という一文から始まります。
この、読者に直接語りかけるような導入によって、私たちは一気に「私」の告白を聴く当事者として作品に引き込まれます。
前半で描かれるのは、社会的な役割(出勤や帰宅)を失い、他者との関わりも途絶えた、空白の日々です。
〈私の世界は私の悲しみでいっぱいだった〉というフレーズには、胸が締め付けられるような閉塞感があります。
続く中盤では、〈医師の門をたたき / 古い本を読み / 怪しげな霊媒師も訪れた〉という、状況を打破するために試された具体的な事柄が提示されます。
医療、知識、オカルト……あらゆる手段を尽くしても〈私の色は少しも戻らない〉という現実の告白は、「私」の絶望の一層の深さを読者に感じさせます。
そして、場面はある夕方の公園のシーンに移ります。
雨の中、うつむく「私」の前を、同じように傘もささず、うつむいて歩いてくる「色のない少女」が現れ、〈「こんにちは」〉と声をかけてきます。
世界で自分一人だけがモノクロームの中にいると思っていた「私」の前に現れた、同じ色のない存在。しかし、「私」は下を向いたまま、その声に耳を傾けようとはしません。
この少女は、果たして本当に他者なのでしょうか。
むしろ、自らの悲しみに囚われ、他者との関わりを完全に失った「私」自身の分身であり、あるいは、かつて色を持っていた頃の自分の残像が、今の自分を冷たく追い抜いていった瞬間(すれ違い)のようにも思えます。
だからこそ「私」は驚きも拒絶もせず、ただ雨に打たれるがまま、自らの影が通り過ぎるのを静かに待っていたのでしょうか……。
〈ただそれだけの話〉というあまりにも淡々とした結びが、他者だけでなく「自分自身ともすれ違ってしまった」ような、絶対的な孤独を際立たせているように感じました。
末尾の〈最後まで話を聞いてくれてありがとう〉という一句によって、冒頭の呼びかけは美しく回収されます。
この詩そのもの(誰にも届かなかった「私」の声)が、読者に届くことで作者の微かな救いとなりますように……。
祈るような気持ちで読み終えました。
すでに独自の切ない空気感を持った作品ではありますが、ブラッシュアップの参考までに……。
前半の、色のない「私」の生活描写は、淡々とした虚無感がよく表現されています。
〈出勤もなければ / 帰宅する場所もない〉といった社会との断絶を、もう少し具体的な表現を試みると、中盤以降の詩情がより際立つかもしれません。
タイトルの「すれ違う、」という、末尾の読点(、)は非常に印象的です。
余韻を残したまま物語が続いていくような切なさを感じさせます。
もしこれが意図された表現であれば、すれ違ったあとの割り切れない名残惜しさを表す魅力的なフックになりますが、読者によっては一瞬「おや?」と立ち止まるかも知れません。
「、」が持つ意味をさらに意識してみるか、あるいはシンプルに「すれ違う」と潔く言い切ることでも、孤独の鋭さは伝わるように思います。
ご検討いただけたら幸いです。
初めての方ですので感想だけ述べさせていただきました。また書いてみてください。
ありがとうございました。
※閑話ひとつ
心が疲れて世界の色を失ってしまうような感覚を、この詩はあまりにもリアルに描いています。もしかしたら作者ご自身の深いところから紡がれた言葉なのかもしれないと、読みながら感じておりました。
詩を書くことにより、「私」が様々な色に色付き、様々な色を持てますように、そのことを楽しめますように願っています。
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以上、3作品をご投稿いただき、誠にありがとうございました。
それぞれに、心を打つ素晴らしい作品でした。
拙い読みの中で、十分に 汲み取れていない部分も多かったかと存じます。
もし読み違いなどがございましたら、お知らせいただけましたら幸いです。
暦の上では夏至を迎え、いよいよ夏の始まりらしい季節となりました。
暑さはたまりませんが、一年のうちで最も長い昼の光に感謝して、本格的な夏を楽しみたいと思います。
皆様お健やかにお過ごしくださいませ。