感想と評 9/23~9/26 ご投稿分 三浦志郎 10/1
お先に失礼致します。
1 詩詠犬さん 「そら豆」 9/23
久しぶりのかたです。そら豆から空を連想するのは比較的自然な事かもしれません。「上に向かって」「匂い」などが、この詩の契機になっているのがわかります。興味深いという意味で、面白いのは、不幸な事例ながら、この詩を「死」という方向性に持って行っている事でしょうか。そのサンプルが「空には死んじゃったいきもののおもいがあるそうな」です。地味ながら、この詩の構成は非常に明快かつタイトです。各連に役割を振り分け順に手続きを踏んで詩世界を広げていく。
1連……タイトルから読み手視線を空に導く
2連……「空≒死の匂い」
3連……結論としての自己の生死への比喩的立場や表明。
平易で素朴な雰囲気ですが、考え方がなかなか個性的です。児童詩寄りに読んでもいいかもしれない。
さて以前は結構評価を書いていたんですが、今回久しぶりなので、佳作二歩前から再開したいと思います。
2 妻咲邦香さん 「独走」 9/23
動物―敢えて“けだもの”と言います―は、餌を得、排泄し、生殖する、その為だけに生きると、この場合仮定します。高貴であるはずの人間も、自分を含めて「食」について、まかり間違えば、けだもの達と紙一重なのではないか?そんな主旨を受け取りました。「走っている、はしたない、浅ましく、意地汚く、おぞましい、泣きながら、悔やみながら、喰らう、食い散らかす、逃げる」―こういった語群が、いやがうえにも煽っています。それを取り囲む形容詞的、副詞的役割を果たす詩行群が、とびきり良いです。ムード高まり、詩的に高め、“かっこいい裏メロ”といったところ。まさに「妻咲節、妻咲飛翔COME BACK!」といったところ。こうこなくっちゃウソでしょ。実にいい。飛んでる割に含意や主旨はちゃんと掴める。こうこなくっちゃウソでしょ。
はい、褒めちぎった後で、指摘も書きます。終連です。全体これだけ気高く陰惨に寓意を書いて来て、終わり4行のみ突然世俗を具体を書いてしまう。安っぽいエンド。何でこうなるかなあ?全体のトーンを守って欲しかった。着地はちょっと危ない不時着か?あと、この詩のフィーリングだと「私」ではなく、圧倒的に「俺」でしょうね。惜しいこと、この上無し。本来佳作なのに、あ~泣く泣く佳作一歩前を。
3 荻座利守さん 「夕暮れ空に想う」 9/25
初連についてはアフターアワーズで後述します。とにかく鐘の音。荻座さん独特の、多少込み入った(?)思考ではありますが、安心してください。大意は充分掴めるものです。まずは鐘の音、その無形からくる実態が理工学的要素も含みながら詩上豊かに思考されます。イマジネーションの世界です。それに感応しながら荻座さんは自己の意識を思い、その発信基地である「魂」にまで行き着きます。やがて音と意識(魂)は同質であると説く。すなわち実体はないが、それは「波であり無我であり不生不滅にして不来不去である」―中ほどの「実体を持たぬ~」の連がこの詩の屋根であり骨子と思われます。而して両者の行き着く場所は郷愁である、という。最後は情景と共に詩は終わります。詩中、論理と心情が充分展開され、思考の塊としての結論を得ていると思います。佳作を。
アフターアワーズ。
どうでもいいことなんですが、「鐘の音」が詩中、けっこう関わってくるので、「それなり」と思い書いてみます。一般人の言う鐘、あるいは単純物質としての鐘自体、音程ましてや連続的な旋律を奏でるのはけっこう難しいことで、この詩では市内や町内で流れているような感じですが、鐘の音のように加工処理された旋律が拡声器で流されていたのでしょうか。ハンドベルという音程手段はありますが、人数が必要だし野外で流せるような代物ではありません。余談ですが、教会音楽の発達した欧米では「カリヨン」という鐘を鍵盤とミックスさせて鳴らす大楽器(あるいは建物?)があります。日本では殆ど無いと思っていたら、調べたらけっこうあるんですね、これが…。ただし、そんじょそこらにあるものとは違う。この初連はそういった個別性のあるものでしょうか?
4 エイジさん 「コーヒー一杯」 9/25
前回の「黄昏」を帰宅篇とするならば、今回は出勤篇といったところ。お疲れさまです。
はい、出勤前に、こういう人、意外にいそうです。この詩の流れとして、入り口としての、一般論的な詩行(1~2連)。3連から個別に入るその手際を今回見ておきましょう。感覚的に書くと……。
〇 1~2連 「あ、そう…」 (まずは軽く読み始める感じ)
〇 3連以降 「ん?ふむ ふむ ふぅむ」。 (立ち止まって入って来る感じ) そんな感じ。
“それ以降”を僕はおもしろく読みました。おそらく多くの人がそうでしょう。風景叙述はどこにもないけれど、それでいて風景を感じさせる書き方があるし、読み手各人なりの想像もできそうです。
寛ぎと忙しなさの同居も感じる“あの時間” その匂わせ方も良かったです。個人的趣味を言わせてもらうと、いい感じで流れて来て「ごちそうさまでした―っ」は、ちょと世俗に傾いちゃった気はするのですよ。全て語りでもいいかも?無くてもいいかも? ないしはあくまで語りで―、
戸口にそっと置く
無言ながらも 微笑を……(ちょっとキザか?) 佳作です。
アフターアワーズ。
以前にもちょっと書いたのですが、詩のテーマやアクセサリー物質としての飲み物・食べ物は、まだけっこう開拓の余地あり、(と全くの私論として)思う今日この頃です。ここでの具体名「エスプレッソ、モカ」導入も、そんな文脈でおもしろかったです。この詩はコーヒーという物質を酒との比較において考える契機になりそうです。どちらもJAZZのアクセサリー。僕はどちらも好きですが、ごめんなさい、コーヒーは砂糖ないと飲めません、です。
5 じじいじじいさん 「あきのけはい」 9/25
上げ足を取るようで申し訳ないんですが、「さびしいかおでしたをむいた」「さびしそうにいえにかえった」という下向きのトーンで始まり、最後に「あきがくるのをたのしみにしている」。このトーンの違いをどう捉えるかなんです。詩に限らず、一文であるならば、論理、心情、テーマは揃えられるべきでしょう。推敲段階でチェックしましょう。この詩は子ども用としてはなかなかよくできているのですが、けっこう子どもは素直に「なんでこうなるの?」とおかあさんに尋ねるかもしれません。おかあさん、返答に困る……そんな感じ。もしこれで繋いでいくならば、気持ちとしての「↓」から「↑」への心情変化を書かねばならない。そうなるとややこしい。やっぱりこれは冒頭か最終か、どちらかに合わせるしかなさそうです。後半を読むと「用意」とか次に来るものを思っている風情なので、最終に合わせると想定します。すると初連・2連の後半行を差し替える必要があるということです。“次に備える”的な行動描写でしょう。 おっと、「ひまわり・アリ」といった夏的なものを初秋的なものに交換する手がありましたね。タイトルや大勢には影響ないでしょう。 これは佳作一歩半前で。
6 晶子さん 「思春期の娘」 9/25
「思春期」を調べますと「8歳~18歳」とあります。(僕は8歳はチト早すぎるように思うんですが)、
この詩は、そんな娘さんを母親の視点で語ったというところに妙味がありそうです。
私が初めて孤独ではなくなった日は覚えている (「憶えている」のほうがいい?)
あなたがお腹に来た日だ
ここ、響きますよねえ。 もうひとつ―。
近頃は淋しさも増えてきたね
ここですがねえ、非常な含蓄力を持って詩に幅を与えているし、読み手へのイメージ発信力がある。ここは母・娘両者に関わるでしょう。孤独がひとつのキーワードですが、孤独とは自我の育ちと共に初めて出会う心情か?そんなことを思わせる詩の表情であります。喜びとほろ苦さを、本稿2行目に書いたような雰囲気が伝えていきます。そういう意味では母親の心情詩でもあるわけです。
終行には、かけがえのない存在への愛情、その確かな確認を感じました。詩行並びも一風変わったものを加味しています。 佳作を。
アフターアワーズ。
真面目な話として書くと、この時期の女性は初潮というひとつの課題を通過します。このあたり、男性の思春期とは大分違う。これにより女性の中で独特の自我や世界観が育まれる、そんな気さえします。女性の親子関係が男性のそれより、より友達感覚に近いのは、そんなことも影響しているかもしれません。
7 小林大鬼さん 「この道」 9/26
この詩は、単に技術論上で評すると、ちょっと困っちゃうくらいシンプルなものですが、普段の大鬼さんの作品風韻からすると、上記した方面を離れて書いた、そんな気がしています。シンプルなだけに、ここに提出されたテーマは自己はもちろん、全てをーこの世の森羅万象を―包むことができる。
今、僕が考えていたのは、たとえば、この社会、この国の事です。分断、格差、災害。政治・経済もあんまり良い材料がない。ことによると、この国はゆっくりと衰退に向かうのかもしれない。それでも道はつけていかなければならない。そんな思いで、この詩を味わったのです。特に後半連にそれを感じました。これは評価はパスさせてください。
8 朝霧綾めさん 「てんとう虫の子ども」 9/26
既存作で割と場的、ストーリー的要素が散見されましたが、今回はその推進型か?
詩における夢とはけっこう便利なもので、何でも書けてしまう。後は話をどう成立させ流していくか? だと思います。まずまず、なかなか巡行していると思います。夢であれ、ファンタジーであれ、そのエリア内でストーリーや論理性は確個としたものでなければならないと僕は思っているのですが、これはその理にかなっています。一か所、ヘンな文章がありますね。終わりから3連前「その子は私にお母さんのように甘えた」。これだと「お母さんが甘えた」風の文章です。言葉不足。おそらく“自分でわかっててうっかり書いちゃった症候群”と思われます。
読み手も何を言いたかったかわかるので、よけい目立ちます。推敲段階でクリアーしましょう。
私がお母さんであるかのように甘えた
お母さんにするように甘えた
私をお母さんと思ったのか 甘えた
まるで
お母さんに接するように甘えた
など、でしょうね。多少説明的になりますが、ここまで書いて意味上、構文上、正常になります。
終連は(なるほど、そういう事か)的な、オチ的なさまが微笑ましいです。そういえば、文脈、雰囲気は淡々とした中に、慈しみや愛情が感じられて、最終連に収束する感じがありますね。佳作半歩前で。
9 もりた りのさん 「炎」 9/26
こういったタイプ・構成の詩は、自詩作、評共に、あまり得意ではないんですが、焦点を絞り込んで、箇条書きにしたいと思います。
① 「わたし」の多用にあって、冒頭と最終のみ「あなた」とし、全く同じフレーズである。
② 炎に対して標準的に使われる動詞が多い中にあって、ユニークなものがある。すなわちー
「廻す」「飛ばす」「崩す」「尽くす」「失くす」「返す」―これらは作者の濃厚な感覚、詩的意図と捉え、考えてみる。
ざっとこういったところです。 ①は僕が「回帰型」「循環型」と勝手に言っているもので、総括したい時や読み手に強く印象付けたい時に有利と思われます。僕もたまにやります。やり過ぎると逆につまらなくなるし、“手の内見られる”可能性大でしょうか。
さて、②が難しい。どれも平文では炎にくっつきにくい動詞です。ただ、ここで見ておきたいのは、
「炎の自然的能動的動作」ではなく、作者の「受動的感性の結果」である点です。何故その言葉を選んだかは作者のみぞ知るですが、そこにこそ、この詩の「詩」があるように思えるし、作者の創造、努力があるように思えるし、そこにこそ読み手はより感応することができるでしょう。
番外的に書くと、ほぼ定型とリフレイン性は、わずかに楽曲詞を思い起こさせます。この詩は、もりたさんの真価というよりは、むしろコレクション上のバリエーション的位置づけだと思います。佳作一歩前で。
アフターアワーズ。
「FIRE AND WATER」。モチーフとしての割合は、火VS水=4:6。あるいは3:7?
大昔にも書いたんですが、これは僕の勝手な思い込みです。どうも水のほうが書きやすいのかもしれない。今回、「火=炎」への密儀参入を手を打って迎えたいと思います。
10 秋冬さん 「本を読む」 9/26
現実の居場所、その風景。誰もが知ってる共感印。後半からの幻想とうつつとの境界。なかなか興味深く読ませます。
3連の雑踏の中の独り。この書き方は気持ちも入って粋でかっこいいですね。4連、愛読書とは正にその通り、至言です。この詩行ほどに現実離れする事態はないんですが、そういったニュアンス、要素は誰しも一回や二回意外と体験します。たとえば(本に夢中で、ヤバイ!乗り過ごした!)みたいな。この詩はそういったエッセンスを詩的に拡張表現してみせた、そこに妙味がありそうです。それを象徴するような終連はオチ的でもあり秀逸でもあります。この詩は変則ながら、その本への愛情作かもしれない。こういう一冊を得たことは幸福のひとつと言っていいでしょう。今回は意図的にフレーズ短めにセットした気配があります。少し感想の方向性を変えると、これ、朗読すると案外いいかもしれない。伝わりやすい詩だし、リズム的には短いですが、節度があって、ハキハキ響きそう。「この本って何?どんな本?」とは聞きますまい。そのほうが粋でかっこいいでしょ? 甘め佳作を。
評のおわりに。
政治的思惑抜きに書くと、国葬での菅元総理の悼辞(ちょと長かったけれど)、友人という立場で
なかなか沁みるものがありました。安倍さんが読んでいたという「山県有朋」の本(同郷だからか?)は、
ちょっと引っ掛かるけど、らしいと言えば、らしかった、か?
三遊亭円楽さん、アントニオ猪木さん、お亡くなりです。それぞれの世界での第一人者。
どうぞ、安らかに。 では、また。