6/23〜6/25 ご投稿分の感想と評です 荻座利守
6/23〜6/25 ご投稿分の感想と評です。宜しくお願い致します。
なお、作者の方々が伝えたかったこととは異なった捉え方をしているかもしれませんが、その場合はそのような受け取り方もあるのだと思っていただければ幸いです。
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6/23 「と」 aristotles200さん
これは本当に危なかったですね。
私には子供がいないので、実感としては分からないのですが、初めての子が生まれたときは、どうしていいのか全くわからずに、あたふたしてしまうのでしょうね。
机や窓にぶつかって、大きな怪我はなかったのでしょうか。親になるというのはとても大変なことなのですね。
特に7連目の描写が秀逸です。初めての赤ん坊を前にした際の焦燥感が、如実に表されていると感じました。この描写はとても巧みです。
また、「と」や「無意識に」といった、一文字連や一行連を入れることにより、絶妙な「間」が生まれ、その時のありありとした緊迫感が表されています。タイトルの「と」とは、なるほどこの緊迫感のことなのですね。
一文字連にはこのような「時間のタメ・強調」といった効果の他に、「視覚的なインパクト(空間の演出)」や「リズムの断絶と転換」といった働きもあるようなのですが、この「リズムの断絶と転換」という働きの観点から言えば、「深く息を吐き」の前にも何か一文字置いて、緊張感からの解放を強調してもいいのかな、とも思いました。
最後から2連目に、「あれほどの危機は/一生一度もない」とありますが、確かにその通りなのでしょう。そんな決して忘れらない危機を、このような臨場感あるれる表現で描かれているのは見事だと感じました。
評につきましては、佳作としたいと思います。
6/23 「ビールか日本酒かと言われたら」 三津山破依さん
日常の風景を描いた、なんとなくホッとするような感じの詩ですね。
個人的には、私は唐揚げには檸檬をかけない派です。ビールや日本酒よりもワインやウイスキーのほうが好きなのですが・・・
それはともかく、檸檬を投げて檸檬色の雨を降らせる、というところがどこか幻想的でいいですね。リトルリーグ優勝選手の投球フォームというところから、幼なじみと飲んでいる場面でしょうか。「ここはわたしの家で、/あなたはただの酔っ払い。」という表現が2人の親しさをよく表しています。また、末尾の「どうぞ命を削りませんように。」という一行に、言葉には出さない相手への気遣いを伺えます。
ここでまた個人的な意見ですが、この「檸檬色の雨を降らせる。」という表現は、この場面に意外性をもたらしていて、それがこの詩の魅力の一つともなっているとも思います。ですからこれに関して何かもうひとつ表現があれば、よりその魅力が引き立つのではないかとも思います。
また、末尾の「どうぞ命を削りませんように。」というところも同様です。これらに関しては、例えば檸檬の酸っぱさや、大根おろしの辛さなどを、何かの比喩に用いるのも一つの方法だと思います。
それでも全体的に構成がしっかりしていて、また、「あなたの分には、かけないけどね。」「あなたの分はないけどね。」といった表現がユーモラスで面白いです。
評につきましては、佳作半歩手前としたいと思います。
6/23 「窓辺への漂着」 星影 流さん
雨降りのために出かけることをやめて、部屋にとどまった日の情景を描いた作品ですね。
「降り止まない音とズレた時の音が
水玉になって流れ込む部屋」
一連目のこの表現が、読み手を詩の中に引き込んでゆきます。予定の変更を余儀されなくなった時間と雨音が共鳴しているかのようです。
ポッカリと空いた時間を持て余しながら佇む自分を、海の中の漂流者に例えるところも巧みですね。
「雫」「滴」「露」を一文字ずつ配置しているところも、窓ガラスに散りばめられながらも、時折虚しく落ちてゆく雨滴の侘びしさを、美しく表現していると感じました。
さらにその後の「飽和の溜め息」「泳ぎ疲れた視線」。これもまたいいですね。思いがけず空いてしまった時間に何をしていいかわからない、あるいは、何もする気にならない、そんな心情を上手く表しています。
最後から2連目で「退屈が少し笑った」微妙な心情の変化表されています。ただ、これに関して個人的には、その心の変化についての表現をもう少し加えてもよかったのではないかとも感じました。それまでの表現がとても巧みだっただけに、相対的にこの部分が物足りないように感じられてしまうのです。ここの心の微妙な変化をもう少し詳しくトレースしてみたほうが、より作品の美しさが増すのではないでしょうか。
それでも最終連の
「砕けた予定と時の音が
白い砂になっていた」
という表現は秀逸です。思いがけない出来事を受け入れられる、心の素直さ、清廉さ、潔さが、「白い砂」という言葉に凝縮されている、そんな印象を受けました。
全体として表現がとても優れていると思います。評につきましては、佳作としたいと思います。
6/25 「ロンリーとソリテュードの狭間」 虹乃 衣里絵さん
とても辛い状況に置かれていたのですね。私も奇数のグループば難しいという話を聞いたことがあります。また実際に、そのような奇数のグループで疎外感を感じたこともあります(ただ通院するほどにはなりませんでしたが)。
ここで一つ、断わっておかなければならないことがあります。私は個人的に、このようなタイプの詩に対しては、表現や構成などの技巧的な事柄については、あまり評するべきではないと考えています。
この詩は、文芸作品の一つという側面よりも、心理療法のジャーナリングの一つという側面のほうが大きいように思えます。ですから「作者と作品は切り離して考えるべきだ」という、いわゆる「テクスト論」では語れないと考えるからです。
しかしそうなると、心理療法の専門家ではない私には、多くのことは言えなくなってしまいます。
ですが、もし、虹乃さんが現在回復途上にあり、一人の表現者として、この詩への感想を求めているのでしたら、以下の2点を述べたいと思います。
まず、全体的に淡々と事実が描かれているところに「物事に感動しなくなって/冷血漢と思われて居そうだ」という感じがよく現れています。
そして、タイトルにもある、最終連の「ロンリーとソリテュードの狭間を/必死に泳いだ末に」という表現が印象的です。
「ロンリー(Loneliness)」と「ソリテュード(Solitude)」とは似たような言葉ですが、その2つには明確な意味の違いがあるそうです。
ロンリーは、「誰かとつながりたいのに、つながれない」という主観的な寂しさや苦痛を指します。一方ソリテュードは、「あえて一人になり、自分の時間を楽しむ」という建設的でポジティブな孤高を指します。この2つの言葉の使い分けは見事です。実際に疎外感に苦しんだ人でなければできない表現でしょう。虹乃さんが現在回復途上にあるように感じたのは、この表現があったためです。
但し、先述の理由により、今回は評については見送らせていただきます。