評、6/19~6/22、ご投稿分。 島 秀生
遅くなりました。
●トキ・ケッコウさん「ホトトギス」
ホトトギスは、もともと夏の季語で、万葉集の昔から頻繁に短歌・俳句に登場しますが、
とりわけ、
「鳴かぬなら ころしてしまえ ホトトギス」信長
「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」秀吉
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」家康
この武将三人の性格の違いがわかる句として有名ですね。
それゆえか、この詩には作者の句も入っています。
私個人的には、ホトトギスの口の中が赤いことから、「鳴いて血を吐くホトトギス」の言葉があり、結核の意を持つ鳥として、自身の雅号とした「子規(ホトトギスの意)」のことが思われてなりません。
ちなみに「鳴いて血を吐くホトトギス」には、「口の中が赤いからだ」のほかに、「血が出るほど、鳴き続けるからだ」の異説もあり、鳴く時期にはしつこく鳴くようです。
作品ですが、夜明け前にホトトギスの鳴き声で目が覚め、布団の中で思案を巡らせている感じから始まり、やがて夜明け。そして朝起き上がってからの、朝一番の行動でしょうか。虫を捕まえ、虫を殺さず、外へ逃がす行為をする。
と、いった時系列が、詩の背後でゆるやかに流れてる感じがいいと思った。
考えてること自体よりも、そういう沈思黙考のうちに過ぎた「時」が描けていると感じた。そこがまず良かったです。
2段目のところの言葉が深いかなと思った。鮭のようにライフサイクルの中で、繁殖を優先して、命を縮める行動を、当然のようにするものもあるが、あれは決してジサツではない。ジサツをするのは人間だけだと思う。他の動物は決してしないことを思うと、ジサツは、生命の規範に反する行為なんですけどね。何故か、人間はしますし、そこを思い悩みますね。ただ、生きたくとも生きられない人もいることを思うと、純粋にそこを悩める時間を持てるのは、ある種、贅沢で豊かな時間であるのかもしれません。
ともあれ、万物の生命に想いを馳せた作者は、一匹の虫を逃がしてやろうとしますが、虫の行方不明から、自分の行方不明にまた迷い込むようです。
他の生きものから、自分の人生の在りようを考えるのは、いいアプローチだと思いました。秀作を。
ところで、詩は詩としまして、余談になりますが、
だいたい、鳥が高い所に留まって大きな声で鳴いている時は、繁殖行動なのであります。繁殖のための縄張り主張(他のオスに対して)であると同時に、メスを自分に呼び寄せている行為であります。
ただ、ホトトギスやカッコウの場合は、もう一つの意味があって、托卵先であるウグイスやオオヨシキリなどが自分に釣られて鳴くのを故意に誘っているところがあり、その鳴き声で相手の所在を探っているフシがあります。ホトトギスやカッコウの場合、托卵先の鳥が近くにいることも、繁殖の条件だからであります。
ご存じかもしれませんが、ウグイス等に托卵されたホトトギスの卵は、一番先に孵化します。孵化したホトトギスのヒナは本能的にお尻で、他の卵(本当のウグイスの卵)を全部、巣から落として割ります。そして自分一人を育ててもらいます。ホトトギスって、実はワルなのです。
また、巣にいる鳥や卵が、他の動物に狙われることは時々ありますが(卵やヒナに限ってはカラスも狙う)、飛び回ってる親鳥を捕食するものはめったにいません。タカ類でも、オオタカとハヤブサ類(チョウゲンボウ含む)に限られるので、そういう所はめったにないと思います。おっしゃるように、それらがいるとわかると鳥は鳴きません。
●相野零次さん「空虚」
読んでいて、
宇宙の謎と、人間存在の謎は、似てるのかもしれんなあーと思った。
宇宙とも、なんともいえない空間に浮かんで、漂ってる感じで読めました。
リアルなものも登場するのだけど、全部、空間に浮かんでる感じがする。
良いように言えば、シャガールの絵みたいです。(シャガール本来の意味合いとは違いますが、花束を持った女性が宙に浮かんでたり、リアルなものが全部空に浮かんでたりする、配置や構図が、この詩のイマジネーションと似てるという意です。)
本人、意識してないかもしれないけど、この空虚の世界が、一つの絵面を持っているのがいい。
たぶん、ただのモノローグに終わらず、いろいろ登場するところで、一つの絵面を持ってくるんだと思う。救急車も空に浮かんで読めますね。
うむ、いいと思う。名作&代表作入りを。
●上原有栖さん「スイマー」
赤信号のきわに飛び込んでくる自転車って、車から見ると、一番アブナイですよね。
なにしろ間際まで横断歩道上にいないんだし、しかもそっちはもう赤信号だから終わったと思ってると、猛スピードで突っ込んでくる自転車がある。あれ、脇道からの飛び出しと同じレベルだと思う。絶対セーフじゃないよね。私も何度かヒヤッとさせられたことあります。
昔、野良犬や野良猫がもっと多かった頃の話ですが、車に轢かれるのは決まって猫の方が圧倒的で、犬はめったに轢かれるということがなかった。それは犬が道路を横断する時「歩いて渡る」のに対し、猫は道路を「走って渡る」からです。つまり、道路を走って渡ること自体、車からの視認性が落ちるのです。それを赤信号のきわでやると、信号に間に合ってるかどうか以前に、車からの視認性として、危険度90%の行為をしてるようなものなのです。
事故確率の高い行動を繰り返してると、そのうち必ず当たりになる。時間の問題みたいなものなのです。(詩に出てくる「勢いで泳ぎ出た」人も、その行動は初めてしたんじゃないと思う。何度もそんなことを繰り返していた結果だと思う)
どっちが正しいとか、警察がどうとか、言う以前に、事故を起こしてトクする人は誰もいないのだから、当たった方も、当てられた方も不幸にしかならないのだから、事故確率の高い行動は、お互いしないほうが良いのです。つまるところ自分のためです。
ああ、すみません、余談が過ぎました。
作品ですが、人混みをかき分けて器用に歩く姿は、たしかに魚群の中をぶつからずに泳ぎ回る魚のごときスイマーですね。
そしてこの世は大海原で、されど鉄の塊も走り回っている。
おもしろい構図で描かれた、いい比喩だと思います。
3連の「喚起」は、注意喚起ってことですね。
4連では、ついに事故になり、終連を見ると、死亡事故だったようです。
この詩の中には、群集心理で、みんなやってるからいいだろう、みたいになってることへのアイロニーもあると思います。
みんなしてやっておいて、誰かが犠牲になっても、ただ見ているだけだ、みたいな主張を感じる終連です。
うむ、いいと思いますね。比喩がバツグンに良かった。
名作&代表作入りを。
一点いうと、初連1行目。
潮の干満は、たしかに等間隔ではありますが、一日にそれぞれ2回、計4回のことなので、それと信号が変わる間隔・回数は段違いに違うので、1行目の比喩だけ頂けないんです。信号機に喩えるのではなく、魚の方にしませんか?
寄せては返す波のように
青信号で魚群はあふれ
赤信号で魚群は引いていく
信号機が点滅している
注意せよ もう渡ってはいけない
されど危険を知らせる合図を無視して
横断歩道を行き交う魚影たち
こんな感じはどうでしょう???
そこだけ一考してみて下さい。
●aristotles200さん「赤」
現代美術には、最初からロケーションを計算に入れて、生かす作品があります。この場合でしたら、夕焼けの赤い光が入る場所に飾ることを前提にし、それを計算に入れて生かす作品を作ってる場合があるのですが、
第一印象はそっちだったのですが、詩中には無名氏とあるので、そういったものでもないかもしれません。作者が独自にそう思う、発見の絵があるのかもしれません。絵の内容と画題を見れば、だいたいはっきりするんですけどね。
詩の段階では、そこは想像に任せているようです。
それはそれとしまして。
そこにどっぷり浸かった時の印象、心の騒ぎ具合を書いてくれてるのは、いいと思いました。
そこをワン・ワールドにして書けたら、この詩はもういいんじゃないでしょうか。
「・・・・・・」以降の続編はいらない気がします。2つを連作的に載せる場合は、2つの連係・相互関係から何かを言わないといけないのですが、
今日も
連れて行っては
くれなかった
は、前の作との脈絡が見えない。別々の日のことを、バラバラに書いてるとしか、ちょっと見えないものでした。
また、
今日も
連れて行っては
くれなかった
なんて置くと、こっちがホントのテーマで、ここから本当の話が始まりそうで、だとしたら、前に書いたことはなんだったんだ、みたいになりますよ。
それに、夕焼けの時間中は、たしかに連れて行ってくれたではありませんか?
それの否定にまでなってしまいますよ。
前との関係性をもって、唯一後ろに置くものがあるとしたら、「夕暮れの時間が終わると、絵はまた静寂を取り戻す」、ぐらいのことではないでしょうか。
あのーー
基本的には、一つの方向で、一つのものに集中して組み上げる、積み上げる、ということを丹念にしてもらった方がいいです。ワールドの組み上げが大事です。
で、どうしても否定を入れたい時は、ワンフレーズ単独で否定しないで、こうだからという周りを共連れで、否定を入れるようにしてもらった方がいいです。
作者的には脈絡が繋がってるんでしょうけど、読む方としては脈絡が繋がらない時があるのです。原因はたぶん、そのへんかと。
終連も、無理にオチをつけなくて良くて、フェードアウトでもかまわんと思って下さい。
後ろは気になったけど、前の方は良かったんで、おまけ秀作プラスを
●ゆづはさん「セピア色の共鳴」
ディスクオルゴール!!
めったにお目にかかれないステキなものなので、すごく印象に残ったにちがいありません。また、嵯峨野の風情とディスクオルゴールの組み合わせというのは、読んでいて、想像を掻き立てるものがあります。
そして、なんと言っても大事なのは、そこにいる「若き日の私たち」であります。「光のなかにいた」で表現されているように、家族が集まり、楽しかった時代であるにちがいありません。とりわけは、お誕生日のお祝いをされる笑顔の人。その時まだお元気であったのでしょう。
今はセピア色の写真の中にしか、いないようにも感じます。
この詩はセピア色の写真を見て、当時を思い起こした回想の詩ですね。
6~7連の連係を読むと、ここにある「百年」とはオルゴールのことのようです。百年前の職人が作った巧みの調べが、古都の静寂に溶けていく美しいシーンです。「祈り」とも「物語」とも表現されていて、キレイです。
嵯峨野の風情と、ディスクオルゴールと、光の中の私たち、の組み合わせが美しい詩です。
名作を。
一点いうと、4連後半の、
その背後で
大きなディスクオルゴールが
静かに息をひそめていた
からディスクオルゴールのことがずっと続くので、
ここはここでキレイで、しっかり読みたい部分ではあるのですが、「あなた」のことが消えてしまう、というのがあるのです。
それは、「あなた」のことが4連前半にしか出てこないせいで、印象がわずかなうちに、すぐオルゴールに行ってしまうからで、
上記4連後半のフレーズに入る前に、もう少し「あなた」のことを書いて、印象を高めておいてから、オルゴールの話に行ってはどうでしょうか? と思いました。
そこをもうちょっと追加する点につき、一考してみて下さい。
●朝霧綾めさん「歩く」
朝霧綾めさん、お帰りなさい。
戻ってきてくれて、嬉しいです。
御作、久々ですけど、健在であります。丹念に書かれていますし、構成も取られていますね。
人生を道に喩えること自体は珍しくないんですが、この詩ほど、物語の中を登場人物が実際に彷徨い歩く様が見える作も珍しいです。第一に映像力がある。
しかも抽象すぎることもなく、リアルすぎることもない。
たとえば、
小さな一軒家の前を通り過ぎた
窓からこぼれる灯りを見た
その暖かさは私のものではなかった
に見られるように、家のロケーション自体は、ちょっと童話的な設定のところがあり、他方で、そこから伝わる温かさは、リアルに肌身に染みるようなものがある。言うなれば、短編映画のようであり、大人の童話的なところもある映像空間を醸し出しています。
そして、そういう客観性をもった人物の置き方で描いているけれど、作者本人は、もっと深刻に悩んでいそうだというのも、人物の動作や対応からわかりますね。
私は歩いている
ポケットに手を入れて俯きながら
誰かと出くわしてはすれ違い
たまに怪しまれて たまに怒られる
誰かにわかってもらうことも
誰かをわかってあげることもない
の姿は、孤独そのものです。
ただ、方角を聞かれたら答える。必要な時には水筒の水を分けてあげる。それぐらいの最低限、人間として必要な優しさは持ち合わせていよう。
それが、今のところ得られた、作者の人生の歩き方のように思われました。
名作を。
そこは誰かの庭だった
道理で綺麗すぎると思った
ここは象徴的な意味もありつつ、あるあるの話にも思えて、実感あるというか、生きている詩行で印象的でした。
「歩く」は、シリーズ化してもいいかもしれませんよ。
本作は、極めつけの一作ですが、シチュエーションによって、いろんな歩き方を描く、ヴァリエーションの作を作ってもいいかもしれません。
───*──*───*───
評のおわりに
建国250周年でのトランプさんは、相変わらずでしたね。
トランプさんに言いたい。
おまえが世界の王を名乗るんじゃない
世界の王を名乗っていいのはただ一人
王貞治だけなのだ、と。
(なんのこっちゃ)