歴詩奇譚「三成二人」第四章 三浦志郎
〇 関ケ原
石田三成ら西軍が挙兵すると、徳川家康は上杉征伐を止め反転、豊臣大名をそのまま連れ西進した(東軍)。 両軍は岐阜・大垣等
で戦いつつ関ヶ原で決戦を迎える。関ケ原合戦当日の布陣図を見ると、西軍が完璧なほどに東軍を包囲している。
歴史に「If」はないのを承知で書くと、この地図通り戦が推移すれば、家康は討死にし江戸幕府は開かれず、歴史は全く違った
ものになっていた可能性もあった。結果は東軍が勝った。家康は西軍の多くを調略し、静観・不戦・裏切りの密約を取り付けてい
た。結果、西軍は実数の半分しか戦っていない。このあたりに三成の、戦略家、戦術家、人間としての痛点、限界があったのかも
しれない。ともかく関ヶ原はわずか一日で終わった。歴史一日の紙一重だった。
美濃 関ケ原 天下分け目
東西両軍約二十万 互角の戦い いやむしろ西軍優勢
そんな時に不幸は起こった
日和見をしていた小早川金吾中納言秀秋 突然の裏切り
攻勢で隊列の伸び切った大谷吉継の軍勢に襲いかかった
影響はたちまち現れた
結果 各陣 逃走あるいは崩壊
西軍 敗北
石田陣 ここも早晩 敵で蹂躙されるだろう
三成は先陣の島 左近の許まで駆けた
そこに弟・三成もいる 三人で合議しあり
その後 三成は舞 兵庫を伴い大谷陣に向かった
残った二人が拝跪して送り出す
痛恨の極み
それぞれ袂別(べいべつ)があったらしい
大谷刑部吉継、その戦いぶりは悲痛であった。病み衰え鎧をつけられず馬にも乗れない。
業病で崩れた顔を白布で覆い輿に乗り四人の武者に担がせた。失明の為、側近に戦況を聞きながら下知していた。その姿には鬼気
迫るものがあった。彼の名将の所以は小早川のもしもの裏切りに備え、あらかじめ別勢を控置させていた事だった。その部隊が小
早川を二度押し返している。
「三成 来たか 今日は“どちらの”おぬしだ?(笑) 」
「刑部 幸い おぬしがかつて存じよりの三成だ!」
「さてこそ 安堵した」
「戦は負けだ かねての約定通り 死出の誘いに参ったぞ」
「弟のほうはどうした?」
「落ちるよう命じた 再起を図らせる」
「それがよかろう さて そろそろだ」
「この戦 義戦として後の世にも語られるであろう それでよい」
「五助 首は穴を掘って埋めろ 敵に渡すな」
三成・吉継共に直垂のみの胸元をくつろげる。凄まじい気合いと共に刺し違えた。
三成を舞 兵庫が、吉継を湯浅五助が、それぞれ介錯した。両名は首を山中深く埋め、
主君の後を追い自害して果てた。
〇 左近
二番家老の蒲生備中は島 左近と共に常に先陣を担っていたが、東軍・織田有楽斎の軍と戦い討死していた。
すでに両翼の一角が崩れていた。
石田家が戦に赴く時、弟・三成は必ず島 左近の手に属した。今日もそうだった。
その時、弟は兜に必ず頬当(覆面)を付け顔を隠した。士卒たちはいつもの*陣借り牢人と思い不審には思わなかった。敗戦と決
まり兄は自害した。今はその死を嘆いている暇はない。彼は初めて頬当(覆面)を取り顔を晒した。兄の遺志を継ぐのだ!
*陣借り牢人……牢人の武士が他家の陣を借り
武功を挙げることにより仕官の道を目指すもの。
現在のフリーランスの「就職活動」のようなもの。
左近 言う
世間話でもするようにー
「蒲生も討たれました すでに負けでござるな」
“一人になった”三成に振り返る
「落ちられよ 兄・三成様の これは遺言です
大坂で再起を図られよ 源頼朝公の吉例もあり」
弟・三成は常に兄の影として裏の世界に生きて来た。影の任を解かれ、今晴れて真の石田三成として光の中に立ったのだ。
しかしその途端、今までの平穏は奪われ、敗残の石田家、傾き始めた豊臣家を背負わされるとは一体どういうことであろう!?
左近 思う
(不幸なお人だ 弟君……)
「左近 今まで世話になった!」
涙とともに
三成 一声 “左利きで”馬にまたがり駆け去った
(さて 殿を落とし参らせー)
左近 己の務めは全て果たした
あとは武名で世に知られた
“島 左近”の最期を飾るためだけにある
士卒に告げた
「今から 老賊 家康の首を獲りに出かける わしと共に死を望む者 前に出でよ」
皆 賛同でどよめき あまねくつき従う
左近 破顔一笑
「よし よし いよいよ わが配下 死が好みと見ゆる!」
即座に許した
「続け!何も難しいことは言わん 家康の首ひとつ獲ればよい!」
異様な軍団が動き出した
その後の
島 左近の行方 生死は
誰も知らない
* * *
評なしで。 つづく。 次回は最終回、7/24。