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スレッドNo.7766

歴詩奇譚・鎌倉篇 一 「悪党の系譜」後編 三浦志郎

元弘三年(1333年)五月二十二日
鎌倉幕府は新田義貞によって滅ぼされる
北条一族 長崎父子他 およそ二百八十人 
東勝寺にて自害

この腐敗政権の滅亡にあたり
鎌倉武士の防戦ぶりは凄まじい
たとえ 
その時の為政者が愚かであるにせよ
兵 それぞれの武勇と矜持とは
おのずと別の処にあるらしかった
この政権には過去
名君も多く
美しく栄えた時代もあった
武家の都に生きた全ての人の魂が
戦う武士たちに宿ったとしか思えない
「この地 守っておくれ」とー
その奮戦 古今に比類なし


   鎌倉幕府最後の総帥・北条高時の腹切りやぐらが現存する。戦前教育では、その供養塔に石が投げられたりしたようだ。
   今はそんなことはない。ただ残念なのは、今はそのやぐらは(崖崩れの恐れの為)立ち入り禁止になっている。


どうやら 私は うっかり
死者に鞭打つ詩を書いてしまったようだ
だが 事実だから仕方がない
ただ 今思うことは
その口直し 
せめてもの鎮魂のために
ある歴史学者の次の言葉を掲げたい
悪党たちにも伝えたい


「(ある書物は)幕府滅亡の原因を、北条高時の愚行や長崎高資の専権に求めるのであるが、
幕政の動揺は個人の愚直や為政者の思惑をこえた社会の根本において、
また政権の基礎である御家人制の変貌に深く進行していたのであった」


                          (終)

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付記。

〇 足利幕府、徳川幕府にくらべ、鎌倉幕府はその創始者と最期者が全く別人なのが異例である。政権の性格がまるで違う。
泉下の源頼朝が知ったら驚き嘆くことだろう。そして、これだけ闘争と流血が多かった政権も稀な気がする。最も短い武家政権ゆえ、
それだけに死の密度は高い。何故だろう?と考えてみる。鎌倉時代はおそらく後世の武家社会―たとえば織田・豊臣・徳川期―にくらべ、政権運営はもちろん、武家としての行動指針・精神背景・文化蓄積がまだ貧しかった。「倒すか 倒されるか? 生か死か?」。
ふたつにひとつの選択枝しか持たなかった。鎌倉武士、めっぽう強いが、そんな武家文化初心者としての未熟を思ってみる。
それは時代の未熟でもあって、全てが武士たちの責任とは言えないだろう。そこに私は彼らへの憐憫を感じていたいのだ。

〇 自由に見学できた頃の北条高時腹切りやぐらに、私は三度ほど行ったことがありました。供養塔の背後の卒塔婆のひとつに、
俳優「高倉 健」の名前があって驚いたことがあります。ところが調べたところでは、高倉は傍流ながら鎌倉北条家の子孫である
ことは間違いないのでした。その人物は金沢流北条家の北条篤時。金沢文庫創設者・北条(金沢)実時の次男です。
この人は幕府滅亡時、北条高時と共に自害したが、その子らが九州まで落ちのび、姓を小田に変えました。高倉はその子孫という
ことになります。腹切りやぐらに卒塔婆があるのはごく自然のことでした。高倉 健の誠意のしるしだったのです。

北条高時腹切りやぐら (東勝寺跡 立ち入り禁止以前)

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