いや、なんでもないよ 理蝶
駅前の古い喫茶で
水出しのコーヒーを飲んでいる
君はなにやら名前の長い一杯を
流暢に店員に言いつけた
それはまだやって来ない
昨日の晴れ間の話や
明日からのどこかのセールの話
君はあちらこちらに話を飛ばして
僕はそうかそうかと相槌を打って
君はなんだか満足そうだ
ねぇ、僕はふと君に
ごめんね と
言いそうになる
なぜそんなことを
言いたくなるのか
僕にもわからない
きっとこの世には
心の中ですら
言葉にしてはいけない事がある
見つめてはいけない事がある
それに立ち向かうのが
ほんとうのぶんがくだよなあ
そりゃあ文豪も辛いよなあ
思索はその突起を
みるみる伸ばし
心の内へ
外の通りへ
向かってゆく
気づけば君は
火曜のドラマの
報われない脇役を
憐れんでいた
あまりに地に足のついた
君の話は少し退屈
君に限らず
誰かと話をする時
微笑みを浮かべる時
細い涙をこぼす時
僕の心は冷えた操縦桿を
握っている
それもとびきりきつく
夜道に怯える幼子が
親の服に縋るように
僕の心は冷えた操縦桿を
握っている
それも錆び付いて重い
喜怒や哀楽
どのあわいに居ても
そこからすぐ抜け出せるように
ごめんね、ごめんね、ごめんね
君の元に
湯気のたつ
名前の長い一杯が
やってきた
たぶん名前からして
それは南米から
やってきたのだろう
ひとしきり喋り終えた君は
それを口に含んで
通りを見ながら
満足そうなため息をついた