10月 4日(火)~10月 6日(木)ご投稿分、評と感想です (青島江里)
◎10月 4日(火)~10月 6日(木)ご投稿分、評と感想です。
☆くまちゃんはニュアンスグレー 紫陽花さん
小さい頃って、ものすごいお気に入りのグッズに出会うことがあり、ずっと一日をともにするところまでいくということも耳にしますね。周辺のお子さんでも「うちの子はずっとお気に入りのタオルをはなしません。」というお話を耳にすることもありました。
水族館でひとめぼれ!なんてしあわせな白熊さん。朝から晩までずっと一緒。途中で、商業施設で置き忘れて、離れ離れの危機を迎えるも、無事に再開!息子さんにとっても一大事な出来事だったでしょう。
第三者からみれば、子供さんがおもちゃを大事にしているぐらいの見方で終わってしまいそうですが、息子さん本人にとっては、アルバムに家族写真を並べるような大切な物語であるのだろうなと感じさせてくれました。
何よりも、そのような息子さんの仲間を大切に思う気持ちに気づき、見守ってあげているお母さんの気持ちが感じられる詩行がまぶしいです。
年月を重ねてくたびれていくぬいぐるみの様子を、負ととらえず、優しくうけいれてくれた証ととらえたところが、ほほえましいです。そこから更に自身について見つめ直す展開、白熊の灰色=息子さんの成長の足跡のように感じさせてくれるところが、反対に真っ白な心の色を反映させているようで、印象深かったです。
息子さんだけではなく、お母さんの成長をも感じさせてくれる作品になっていると思いました。佳作を。
☆季節工場【秋】 秋さやかさん
近頃、特に台風が過ぎ去った頃から、酷暑と呼ばれた時期より解放され、秋めいた気候なってきましたね。この作品は、そのような時期を思い起こさせてくれました。
作品を拝見した後、私は、はたちよしこさんのレモンの車輪」が思い浮かびました。レモンを切った断片が車輪みえて、薄く切るごとにシャリン、シャリンと音を立てて切れて、まるでレモンがどこかに動きたがっているように思えるという感じの素敵な作品です。こちらの作品も薄荷飴の味。あのスーッとする感覚が、季節がわりの風と似ているというところを起点として、そこから独自の物語を展開されている部分が面白い発想になっていると思いました。
さて、細かい部分をみていくと、三行目ですね。「忍ばさせた」は、「忍ばせる」の方がよいと思います。またそのあとの「どこにでもいるような人」は、省略しても意味は通ると思うので。「いつもどこかに飴を忍ばせるような人」とまとめてしまってもいいかなと思いました。あとは、「どこかに」ですが、忍ばせることができるのは、一般的に思いつくのは「かばん」か「ポケット」あたりになると思うので、具体的に記した方がわかりやすくなると思いました。
あとは最終連の「帰ってゆきました」の部分。どのように帰っていったかということを、更に付け加えることで、作品の雰囲気も変わってくると思います。私は、作品の最初に飴を忍ばせるような方々ということから、飴の好きな人ということで、分けてもらった飴のかけらをもらった嬉しいから早く帰ろうという気持ちになっているのではないかと推察しました。なので「いそいそと」をつけるかな。こんな感じでなにかひとつ付け加えることで、詩が動くと思いました。
あと、「台風」という言葉なのですが、このままでも全然大丈夫なのですが、「台風」というと、報道での被害の様子が入ってきて、涼しい風を味わう気持ちになれないという方もいなくはないと思うので、少し響きをずらして「夏のあらし」あたりにするのもいいかもしれませんね。まぁ、ここまで深く書きかえる必要はないとは思いますが。
童話やアニメーションにもなりそうな、作品。素敵な発想だと思いました。今回は佳作半歩手前で。
☆もうひとつの償い 妻咲邦香さん
この世には理不尽なことが多すぎる・・・そのようなことを思う日がたびたびあります。
連日に報道される話題の中にも、なぜこの方がこのような思いをしなければならないのだと思うことも普通にあります。
あえてバックボーンは書かないで投稿されたということですが、色々あてはまりそうなことがありすぎて、どういう時のことがあてはまるのか、私にはわかりませんでした。だから、知られたくなかったのであれば、ご安心ください。
ひとつだけ。あの人の優しさという想定です。読み切れずにすみません。「あの人の偽りのない気持ちがそうさせた」「あの人の優しさが深い霧で曇らぬよう」・・・思い浮かんだのは、SNSで知り合った人が共に命を絶つという記事です。ほかにも思い浮かぶものがありましたが、私の中で確定して拝読することはできませんでした。
この作品の中で一番印象に残るのは「~受け入れられずに/傷つけました/罵りました」の部分でした。
どういう想定かはわかりませんが、私は罵ってしまったことは、罪にはならないと思います。なぜなら、それは人の自然な気持ちだから。命を奪われてしまって沸き上がってくる思いを、我慢して我慢して、抑えきれずにぶつけてしまったのであれば、なおさら。自分を責めて責めまくって、心も体に不調をきたしてしまったら、生きていくことができなくなるから。その人の分まで生きていかないといけないから。けれど、ずっと罵り続けることは、自らの性質に汚泥を塗り続けるような行為になるような気がしますし、何も前に進まなくなる気もします。だから私は、奪われた方が生きたいと望んだ世界に少しでも力を添えることができるように、少しずつシフトを切り替えていくようにするのがよいと思っています。我慢できずに発生した罵声は仕方ないことだと思うのです。人間は神様ではなく、あくまで人間だから、100%善い人になろうとしてもなれないと思っています。それよりも何よりも、罵声をあげてしまった時のことを、罪に思ってしまったその時の自身を誉めてあげることが大切なのではないかとも思いました。
さいわいにも、人は地球上にたくさん存在し、理不尽を投げかけてくる人ばかりではありません。辛い気持ちを隠していたとしても、同じような体験をした人が気づき、そばにきてくださるケースもあります。奪われて残された者だって大変なのです。重いものを背負ってしまったような気持ちになり辛くなるのです。少しは薄れたかというような時期になっても、ある日突然色濃くなったり。その時は、我慢せずに泣くことも大切だとも思っています。
毎日を生きるって、手紙を書くようなものだと思うのです。だから、自分なりにこつこつと歩んでいけば、空の上にいる会いたい人にもその思いは届くと思います。会えなくても届くと思うのです。夢の中や、自然の風景に乗せて、そっと返信してくれると思います。いっぱい、いっぱい褒めてくれると思います。この作品を拝読して、そのようなことを思いました。デリケートな思いがたくさん詰まった作品だと感じました。今回は感想のみとさせてください。
☆触れる 樺里ゆうさん
樺里ゆうさん、おかえりなさい。ごていねいなご挨拶をありがとうございます。じっくりと、マイペースで、詩の時間をたのしんでいただくことができたら、とてもうれしいです。よろしくお願いいたします。
どうして人は、愛おしいと思うと触れたくなるのか。思いっきり考えたことは、ないかもしれません。自然現象・・・。そんな感じで受けとめていた感じがします。
好きな人同士ではなくても、小動物を家族として迎え入れて過ごすうちに、たとえば、犬や猫がかわいすぎて抱きしめてしまうことは多々ありますね。人って、う~ん、人に限らず、生き物って、ぬくみがあるから確かめたくなるのかもしれないですね。
そんなことを考えているうち、作者さんが考えているようなことが頭に浮かんできました。たしかに、考えてみれば、くちもとは、言葉や音を発する場所でもあるし、生きていくのに必要な食の入口でもあり。大変重要なところだったりしますものね。
人が生きてきたこれまでをふりかえり、そして出した結論、言葉が出なかった頃の名残であるという発想は、はっとするものがありました。
詩の全体を見て感じたことは、「わたしにはわからない」とされる部分の比率が多めのように思うので、整理してみるといいかなと思いました。
五連目ですが、他の連に比べると、一行の文字が飛びぬけて多くなっているので、行がえしてもいいかもしれないですね。たとえば・・・・・・
でも考えるうちに人間は
言葉が充分でない時代の方が
長かったじゃないかと
思い当たった
原稿用に書くイメージを浮かべると書きやすくなると思います。
あと、私自身は、詩は思ったことや感じたことを書くと思っているので、できる限り「思った」や「思い当たった」を使わないようにしています。その言葉を省略できた分、仮に投稿作品に字数制限があった場合、その分、他のことを書く余裕も生まれてくるからです。文章っぽくならないというよい点もあります。いつか何かのお役に立つことができたらと思い、追記してみました。
自分の思ったことを、言葉で表現できるって、気持ちいいですね。ふだんは、通り過ぎていることも、なぜだろうという気持ちをもって、見つめると新たな発想が生まれてくる・・・・・そのようなことをこの作品から感じました。今回は佳作一歩手前で。
☆キリギリス Osadaさん
虫の音がよくきこえるシーズンになりましたね。自転車のハンドルにキリギリスが止まっていたそうですが、こちらの方でもつい先日、家のポストにキリギリスが止まっていました。
ハンドルに止まっていたとして終わっていれば、それでおしまいになっていたかもしれません。どうして詩になったのかと考えれば、やはり、もう一度みにきてやろうという思いがあった・・・その部分が大きいと思います。
結局のところ、荷物を置いてからもう一度見に行くの部分ですが、忙しさのあまりに忘れてしまうことになりましたね。ハンドルを見て思い出し、キリギリスについてもっと知りたくなるということになる展開。そして、人にまでキリギリスのことについて尋ねてしまう展開。キリギリス愛がじわりじわりと広がる様子がうかがえます。
ただただ、自転車のハンドルにキリギリスの止まっていたことを見かけて気になったという場面をテーマにしているのですが、感情を込めると、このように詩のかたちになるのだということをみせてくれている作品になっていると思いました。
広い場所に気持ちよい秋風が吹いていくような、さわやかでおだやかな詩の流れが心地よく、エッセイの風味も帯びていて、個人的には、登場する場面のひとつひとつに色がついている風景が浮かんでくるような、その世界にとても入りやすい作品になっていると思いました。
気になったことは、もう一度見に行くことを忘れてしまったことの原因の部分ですね。一から十まで書きたい気持ちはわかるのですが、盛り込みすぎていて、キリギリスのことよりも大きく幅をしめてしまっている感も否めないです。あと少し、整理することをおすすめしたいです。
最終連の「初夏の稲葉のような~」から始まるレトリックは、お上手だなと思いました。拝見しているだけで、自転車に毎日乗るたびに思い出すキリギリスのことと、時間が経ってその思いが薄れてきた頃には冬がくるんだということを彷彿させてくれました。色付きの時間の流れを感じることができました。日常のさりげない風景に切り込みを広げて、季節感あふれるおだやかな世界をみせてくれた作品。今回は佳作半歩手前で。
☆暗数事案 暗沢さん
投稿していただいた作品を拝見する時は、その時々そのままに感じたことをもとに、読み進めさせていただいているのですが、今回の作品について、私の読み込み力不足のため、何度も読み返すことになってしまいました。
つまずいてしまったのは、一連目。最低限の設備が整っている安いホテルに宿泊している人の様子が思い浮かびました。
そんな手頃な密室は
恰も手狭な空間にうごめくものを
別のフロアへと運んでいくようだ。
この部分の状況が見えにくかったです。更に、
目覚めと同時に定位置へと戻る、無意味な昇降である。
この部分。一行目からでは、定位置とはどのような場所かとは推測しにくく、また、無意味な昇降と記されている部分に関して、平坦なホテルの一室のどの部分を昇降するのかという迷いどころが発生してしまいました。二連目になるとなんとなく定位置というのは、カーテンを開く窓ということがわかるのですが、その窓が、サッシのような大きな窓なのか、小さい窓なのかということがわからないので、昇降という部分については解明できないままになってしまいました。
昇降に関しては、四連目にしてやっと、掃き出し窓という言葉を介して、様子を浮かべてつなげることができたのですが、もう少し前の連ではっきりさせていれば、個人的には、迷う時間も少なく読み進めていけたとように思いました。
四連目からは、スイスイと頭の中にその様子を思い浮かべることができました。私なりの解釈としては、今、自身が足を踏み外して命を落とすようなことがあっても、このような入り組んだ雑多なビル街、どこかの隙間に落ちてしまって、誰も気づかないかもしれない。事件のひとつに数えられることもなく、なかったことになってしまうかもしれない。そんな自身のちっぽけさ、世間に対する無関心な空気に対する虚しさ。そのような気持ちを、作品を通して感じました。
最終連の着地の仕方も訴えるものを感じました。「一級遮光カーテン」を使ったところがお上手だと思いました。その言葉を使用している連から感じたことは、世の中は、何かと便利になった。人の眠りを邪魔しないように立派なカーテンもつくられたりするけれど、それはよいことばかりではなく、朝に入ってくる光を断絶してしまい、朝の光で自然に目覚めるということも奪ってしまっている部分もある。時折、人の感覚に不安を覚えさせてしまうこともあるのだと。人の本来の規則正しい日常のバランスをいつのまにか崩していたり、個を守るということを重視しすぎることで、他の人への無関心を増長させている感もある。そういう世の中の空気に、時に大きな虚しさを感じるのだ・・・そんな気持ちが浮かんできました。この最終連、その前までの連が少し重めの雰囲気になっていることとは全く逆に、さらっと書き上げていますね。そんなところが、私にとっては、人のちっぽけさや世の中の無関心という部分を更に強く伝わるものにしてくれてくれているように思えました。
一連目と二連に迷う部分がなければ、個人的には、もっと、作品の世界の遠い部分に入っていけたのかもしれないと思いました。今回は佳作一歩手前で。
☆鈴 麻月更紗 さん
鈴っていったい、誰がどういうきっかけで発見したのでしょうね。調べたことはないですが、発見され、世に広めた方はすごいなぁと、この作品を拝見したあとに思いました。
なぜでしょうね。鈴の音って、人の心に響きますよね。色んな音があるけど、そんな中でも身近なのに飽きないし、どこかそばにいてくれるように響いてくれることもありますよね。作者さんは、この作品の中で、ご自身の鈴に関しての大発見を表現してくれていますね。日中は何も深く考えることはありませんが、たしかに、鈴が震えると、自身の心も反応するし、それが繰り返されると、鈴が自身の鈴を鳴らしているようにも思えてきますね。これは、詩を書こうとふだんから思っていないと浮かんでこない発見のようにも思えました。
鈴にも人にも心があるっていう呼応になる表現は、静寂なうつくしい空間をもたらしてくれました。
気になったことは、たった一点。二連目です。音色を「悲しかった」「嬉しかった」の言葉に全部まかせてしまっているとことです。どういうふうに悲しいとか、嬉しいとかを、作者さんの短くまとめた体験を添えると、更にぐっと、心にじわじわっとしみてくる作品になると思いました。今回は佳作半歩手前で。
☆SHOUT UP❗I M HUGRY❗ Diamond poet_muna さん
言いたいことを書く!胸の中にある、くすぶっているものを隠すことなく全部外に出す!
すっきりしますよね。そのあとは、少しだけ気が楽になったりしますね。
自分の思うことや伝えたいことを書くって、詩作に関しても大切だと思います。上手にみせたいあまりに、難解の単語や表現を連発したり、本来自分の書きたい方向とは全く別のスタイルを模倣してみたりするケースも中にはあると思います。
気持ちよく、すっきりと思うことを書くことができましたね。音楽をのせれば元気のある歌をつくれそうな感じもします。ここまできたら、次はこの自然素材を自分なりの表現に変換していくステップにつないでいけると思います。
詩のまん中あたりの「でも、ムカつかない」は、「怒ったら負け」という、著名人がよく話される理念につながるものがあると思います。経済とか経営とか、そんな感じのことを書かずに、自分が一番身近に思う話題の女の子に着地させたところは、茶目っ気たっぷりな表現になっているなぁと思いました。
Diamond poet_munaさんの作品に触れて気になったことは、「!」や絵文字を多く使っていることです。これは、とってももったいないことだと思います。親しい方とのメールのやりとりに関しては、文字だけではフォローできない部分を絵文字で表現することも必要になることもあると思います。ですが、詩作に関しては、そのような感情表現を記号無しでどれくらい相手に伝えることができるかということを磨いたり、考えるという時間を満喫する楽しみがあると思います。作者さんにも、そういうことを楽しんでいただきたいと思うのです。自分なりに書けた時の達成感は、何とも言えないものがあります。時間があれば、挑戦してみてくださいね。ぜひ!
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秋本番。スーパーマーケットをのぞくと、まるまるとしたサツマイモが陳列されていました。蒸してよし!焼いてよし。揚げてよし。煮てよし。ごはんにしても、パンにしても、おかずにしてもよし。スイーツにしてもよし。こんなにレパートリーの広い根菜は珍しいかも。古くから愛されている日本の秋の味覚、栄養たっぷりなサツマイモ。世代を選ばず愛されるサツマイモ。今年も、おいしい秋をありがとう。
みなさま、今日も一日おつかれさまでした。