感想 10/18~10/20 ご投稿分 水無川 渉
このたび初めて評担当を務めさせていただきます。よろしくお願いいたします。ただし今回はすべての方が初回となりますので、すべて感想となりますことをご承知おきください。
なお私は詩を読む時には作品中の一人称と作者ご本人とはいちおう区別して読んでいます。私自身もそうですが、たとえ個人的な感情や体験に根ざした詩であっても、そこに文学的なフィルターを通して創作することも多いですので、詩の中の「私」や語り手が必ずしも作者ご本人のことを言っているとは限らないからです。そこで以下の感想の中でも出てきますが、作品中の語り手については、「○○さん(作者名)」ではなく「私」のように鉤括弧を付けて表記しています。同様に作中で「妻」とあるのは感想でも「奥さん」等ではなく「妻」と鉤括弧付きで記しています。ですが、「私」=「作者」の場合はもちろんそのように読み替えて読んでいただければ幸いです。
●小林大鬼さん「秋色の空」
秋といえば冬へ向かう季節として「死」や「孤独」を思うことの多い季節ですが、この詩からはそんな秋の情感が伝わってきます。
初連で秋の哀しみを「音」で表現しておられますが、「見えない時の鐘」とありますので、虫の声や秋風の音といった具体的な音ではなく、心の中でのみ聞こえてくる抽象的な「音」なのでしょう。ここはとても気に入りました。
2-3連で語り手が呼びかけている「寂しき人」が誰のことなのか、判然としませんが(それとももしかしたら語り手が自分自身に呼びかけているのでしょうか)、その対象が曖昧なことで逆にいろいろな受け取り方のできる詩ではないかと思います。最後が問いかけで終わっているのも、余韻があっていいと思います。
一点だけ気になったのは、タイトルで「秋色」とあるにもかかわらず、本文中には色に関する表現が何もないことです。もしかしたら「寂しき人」が見つめている「死」の色のことか、それとも秋色の空を眺めていると、初連で描かれている音が心に響いてきたということなのか……いろいろ考えましたが、結局分かりませんでした。
いずれにしても、短い中に秋の哀愁が凝縮されたようないい詩ですね。私は自分の書く詩はつい長くなってしまうことが多くて、短詩が書けるのはとてもうらやましいです。ありがとうございました。
●紫陽花さん「私の被害妄想さしすせそ」
この詩は「被害妄想」という一見重く暗いイメージを持つ言葉が主題なのですが、「さしすせそ」で連の一字目をつないでいくアクロスティック(折句)的な形式といい、「さっと」「するすると」「そうっと」等の擬態語といい、全体的に深刻さを感じさせない書きぶりになっていて、人間関係の微妙な感情の揺れを軽やかなユーモアで描いた詩であると受け止めました。(もし違っていたらすみません)
詩中の「私」と「あなた」の関係は友人でしょうか、恋人でしょうか。私は後者と読みましたが、いずれにしても、相手の放った何気ない一言が二人の関係を微妙にきしませていく様子が描かれています。
けれども、実際に二人の関係が壊れてしまうところまではいきません。はじめにタイトルを見た時には実際に被害妄想を抱いてしまってどうなったか、という話なのかと思いましたが、本文ではそうなりそうなんだけどなんとかして、というところで止まっているのが微笑ましかったです。そしてそもそもそれは最初から「妄想」と名付けられているように、本物の悪意ではないことを承知の上での一種の心理的な「ゲーム」なのでしょう。その根底には相手への信頼感がある。それが伝わってくるので安心感を持って読むことができ、暖かい読後感を得ることができました。ありがとうございました。
ところで、まったくの見当違いかもしれませんが、この詩の「さしすせそ」を読んだ時、私は料理における調味料の「さしすせそ」(砂糖、塩、酢、醤油、味噌)を思い浮かべました。人間関係にもセンスある味付けが必要なのかもしれませんね。
●三浦志郎さん「泰時」
ご無沙汰しております。MY DEARの大先輩の詩にコメントするのは恐れ多いですが、感想を述べさせていただきます。
とはいえ、実は私は日本史は苦手で、北条泰時についても通り一遍の知識しかありません。したがって、歴史的な深い解釈などはご容赦ください。
むしろ、この詩からは人間と社会の普遍的な関係性について考えさせられました。どんな傑出した指導者であっても、一人きりで時代を作ることはできませんし、前の世代や同世代の無数の人々が築いた舞台の上でたまたま人目を引く役割を演じているに過ぎないのかもしれません。これは現代においても同じことが言えるでしょうね。
もう一つの視点は、公の働きと私生活の違いです。
私人としての泰時が幸せだったのではなく
彼の開いた時代が幸せだったのだろう
その治世に生き死んだ人々は
(悪くない世)と思ったかもしれない
この一連が何とも味わい深く、人間の真実を突いている気がして何度も読み返しました。個人としては決して幸せだったとは言えない泰時。でも彼の築いた時代は多くの人を幸せにした。泰時本人の身になってみれば、だから良かったのだ、と単純に言い切れない部分がありますが、少なくとも彼が歴史の中で果たした役割は偉大であり、たとえ今日残された墓はみすぼらしいものであったとしても、後の世代の人々が彼の業績を思い起こすたびに、彼は現代に蘇ると言えるかもしれませんね。
けれどもここで終わらないのがこの詩の凄いところです。最終2連はさらにカメラを引いて、泰時の時代を含む鎌倉時代全体の流れに目を向けていきます。泰時が築いた平和な時代は変転する歴史の大きな流れから見れば束の間にすぎません。最後の墓の描写は人の世の儚さを感じさせてしみじみとした感慨に浸りました。
歴史に詳しい読者ならばさらに多様な解釈もできるかもしれませんが、私のような歴史音痴にも現代に通じる人間の真実を考えさせてくれるような、とても味わい深い詩でした。ありがとうございます。
●秋冬さん「秋の夕暮れ」
秋は自然の美しい季節ですね。これは夏の間の過労で生きる力を失っていた「僕」が、人に言われて出かけた散歩で触れた自然の美に生きる喜びを再発見する詩です。それも嗅覚(金木犀)、視覚(ススキ、コスモス、夕焼け)、聴覚(虫の音)、味覚(空腹感)と様々な感覚を通して多面的に描かれているのがいいですね。そのように全身で感じ取る秋の素晴らしさは、生まれて初めて手を合わせたくなるようなスピリチュアルな深みをもって感じられたということでしょう。
けれども、「僕」が再発見したのは自然の美や生きる喜びだけではありません。それは「妻」の存在でした。むしろこの夫婦の絆がこの詩の隠れた主題ではないかと私は思いました。「僕」のことを気遣ってそばにいてくれるかけがえのない存在としての「妻」のありがたみを感じて終わっているのが、とても良いです。この後二人は何か美味しいものを買って、一緒に帰ったのでしょうか。そんな微笑ましい光景を想像したくなるエンディングですね。
二つほどコメントさせていただきますと、3連目の「歩けば眠れる/と言われて」というのは、おそらく「妻」に言われたのだと思います。だからこそ、心配で後をつけて来たのでしょうし、下から3連目の「御礼に」というのも、散歩に行くことを促してくれた「妻」への御礼かと思います。であれば、誰が言ったのかを明示的に書いた方がいいかと思います。
もう一つは、冒頭3連で不眠症のことが書かれていて、それが散歩に出かけた理由でもあったわけですが、その不眠症が結局どうなったのかは最後まで書かれずに終わっています。ですから、何らかの形でこの伏線を回収すると詩としてのまとまりができてくるかと思いました。一案ですが、最後の方に「今夜は久しぶりによく眠れそうだ」のような表現を入れてもいいかもしれません。ご一考ください。
ともあれ、素敵な秋の詩をありがとうございました。
●樺里ゆうさん「偶然」
この詩は何だかとても心に迫ってくるものがあります。「親ガチャ」という表現は個人的に好きではないのですが、確かにどの親の元に生まれてくるか子どもが選べないのは事実ですね。同時にこの詩は「子ガチャ」とでも言える状況について語る詩でもあります。親が子どもを生み育てるプロセスにはもちろん親自身の意志が働いているのですが、他でもない「この子」の親になるというのは、実は親のコントロール外にあることなんですね。そういう意味で、親子は偶然出会ってしまった存在である。この詩はそういった認識に目を開かせてくれました。「親子は愛し合うべき」という模範解答では割り切れない人間のリアルを突きつけるところからこの詩はスタートします。
問題はその偶然の出会いをどう受け止めるかなのですが、「わたし」と「母さん」の関係がスムーズでないのは確かなようです。どのような背景があるのか読者には分かりませんが、「わたし」はそのギクシャクした関係を「偶然に出会ったのだから仕方がない」と諦めようとする一方、そんな自分を見捨てなかった母親への感謝も感じているようです。そこに単なる「偶然」を超える何かが生まれているのでしょう(ちなみに、この詩のタイトルを「偶然」としたのはとても味わい深いですね)。個人的には、全体的にネガティヴな表現の中で唯一ポジティヴな最後から2連目の言葉が「わたし」の本心なのではないかと感じたのですが、いかがでしょうか。
そのような複雑な感情が最後の一連に凝縮されているようです。この涙は単純に親子関係の辛さから来る涙でもなく、さりとて親のありがたさを感じて流すこれまた単純な嬉し涙とも言えず、まさに「なんで泣いているのかわかんない」涙なのでしょうね。このまとめはすごいと思いますし、とても説得力がありました。この詩に出会えて本当に良かったです。
全体的に一行が短く、一連の行数も短い形式も、訥々とした語り口を思わせて効果的です。ただ、
偶然 出会っただけの人に
何を求めても
虚空に遠吠え
するみたい
の2連だけはまとめてもいいかと思いました。ご一考ください。
●じじいじじいさん「ちがうがいい」
SMAPの「世界に一つだけの花」を持ち出すまでもなく、「みんな違ってみんないい」というのはよく言われることですが、現実の世界ではいまだに多くの差別や格差があり、多様性を本当の意味で受け入れるだけでなく、それを尊び楽しんでいくというのは、なかなかうまくいかないようです。だからこそ、このことを様々な形でつねに思い起こさせる必要があるのかもしれませんね。それもただ正論を繰り返すだけではなく、人間の多様性を星空に喩えたところが私には新鮮でした。
最後の2行
みんながちがうから
みんなかがやいているんだ
このつながりもいいと思います。「みんながちがうけど」ではなく、「みんながちがうから」。違いもまたそれ自体、輝きの一部ということなのでしょう。一見論理的に不自然なつながりにも見えますが、それがかえって読者に立ち止まって考えることを促す効果があると思います。
一点だけコメントさせていただきますと、この詩は星の輝きの違いを大きさ(光の強さ)で表現していますが、星には他にもたとえば色の違いもあります。温度によって赤から青白い星までいろいろありますので、そのような視点も取り入れていただくと、さらに多様性を表現できるかもしれません。ご一考ください。
私も子どもの頃は星が好きでプラネタリウムに通ったり、星座を一生懸命覚えたりしていましたが、大人になるといつのまにか星空に目を向けることも少なくなってしまいました。この詩を機に再び夜空を見上げてみよう、そんな思いにさせてくれる詩でした。ありがとうございます。
●Lisztさん「羽化」
芋虫のような幼虫が蛹の段階を経て全く異なる姿の成虫に変化していく「羽化」のプロセスは、本当に不思議で美しい自然の神秘ですね。
この詩の時間的設定は初連と終連で「夏の朝」と固定されています。ですから、その間の連に書かれている情景は実際に「わたし」が観察したものというよりは、今羽化して飛び立っていく虫たちのその後を心のなかで思いやっている内容だと思います。それは決して気楽なものではなく、様々な危険があり、最終的には死に行き着く。例えば蝉は幼虫の姿で何年も地中で過ごした後、羽化して1か月ほどで寿命を迎えます。羽化したということはすなわち終わりが近いということですね。それを語り手は「神の摂理」と表現していますが、そのような命の儚さを虫たちは嘆くこともなく、今を精一杯生きている。そこに「わたし」はあこがれ、自分もそのように生きたいと願う。ここで「羽化」は人生の比喩になっているのでしょう。これは多くの人が共感できる内容ではないでしょうか。私も共感しました。
そのことを申し上げた上でコメントさせていただきますと、この詩で描かれているのが具体的に何の虫なのか、はっきりイメージすることが私は難しかったです。2連の内容からは蝉のようにも思えるし、3連の内容からは蝶のようにも思えます。詩中で繰り返し呼びかけている相手が「おまえたち」と複数形になっているところをみると、蝉や蝶を含んだ、さまざまな昆虫たちのことを歌っているということかもしれません。しかしそうすると、初連と終連で描かれている夏の朝の情景も、実際に眼の前で一匹の虫が羽化していくところをじっと見守っているというよりは、一般的な概念としての「羽化」について語っているように思えてしまうのです。(それとも「わたし」は毎朝のように外に出かけていって、様々な虫が羽化するところを見ているということなのでしょうか? おそらくそうではないと思います。)
つまり、羽化している具体的な指示対象がぼやけているために、初連と終連を含む全体が抽象的な思弁の世界として読者に受け取られる危険性があるのではないかと言うことです。この詩の伝えたい思想自体には強い共感を覚えるのですが、それを何か一つ具体的な虫が羽化していく様子の丁寧な描写と結びつけるようにすると、(最近の島さんの評にもありましたように)抽象が具象に根を下ろし、より説得力を持つようになるのではないかと思います。でもこれはあくまでも私の個人的な感想ですので、もし的はずれなようでしたらスルーしてください。
ともあれ、自然に対する畏敬に満ち、同時に人生への励ましも感じられる詩だと思います。まさに夏の朝のような清々しい雰囲気を持ついい詩でした。今後もLisztさんの作品を楽しみにしています。
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以上、7作です。感想を書くために一つ一つの詩を味読熟読させていただく体験は、私自身とてもよい勉強になりました。ご投稿ありがとうございました。