来年の干支は何ぞや年の暮
カレンダーはヘルパーになってから大きな日付だけのものが予定を書き込めるし目も悪いので大きな字で書かれた節気が付いているくらいのシンプルなもので済ましているので土建屋の不愛想なカレンダーを社福協で貰ってきて目の悪いお客にも配っているので去年の干支も今年の干支もわからない。年賀状も子どもの頃から出さないのでアラビア版画や大作を彫る時だけ「足達」と書いて歩いて配っていたから変わり者の子どもではあった。で、今年は何年で来年は何年か調べないとわからなくなっている。それに盆暮れ正月も去年までは仕事が入っていたので曜日で仕事をしており休日も関係なかったこともある。であるからして、今年からは老人らしい年越しとなった。
月日の発つのは早いもの雷さんは夕発ちだで、去年の夏に世話役お吟様に尻を叩かれて再開した「新・猫髭言笑」も新しい年を迎えようとしている。名もなく貧しく慎ましく風と共に去りぬの予定が、年寄りの独り言を聴いてくださる場を図らずも用意されて、有難いことである。何で四五人しか出て来ないのにアカウントが69269もあるのは謎だが(きっこの俳句のB列車と併せると165000を優に突破している)。
わたくしは有名になって目立って人の上に立とうとする生き方が厭で厭で、やっと名もなく貧しく愉しげに生きる普通の人々の暮らしが出来るようになったので、一日一日の小さな出来事を楽しみながら群れずに生きているだけでわたくしは十分である。現代は人間関係が希薄になって孤独になりやすいということはあるが、孤独になることでしか自分は鍛えられないから孤独を飼い慣らすことが出来る経験を積むと他人とも自分とも適正距離がわかるようになる。有名になること、金持になること、群れることは大きくなればなるほど小さいけれども大切なことを見落とすようになる。だから、人生はなくして初めてわかる喪失の孤独から立ち直るために開かれているとも言える。
俳句における詩情とはなんだろう。わたくしは詩に関しては小学生の時から親しんできたので詩とは何かに関しては一家言を持っている。虚子が『新歳時記』の冒頭で「俳句の季題として詩あるものを採り、然からざるものは捨てる」と宣言しているが、この「詩」がわたくしにはわからなかった。俳人の言う詩情もわからない。ちみたちの言う「詩」とか「詩情」って何よ、具体的に詩人の詩を挙げて説明してくれという思いだった。突き詰めると、いや詩はよくわかんないからと逃げてしまう。だったら何で詩とか詩情と言うのか。俳句は見たもの聞いたことを五七五の定型と季題と言う約束ごとの上に成り立つ。詩にはそういう制限はない。詩語も非現実的で比喩と虚飾に溢れ言葉の意味も解体されて意味をなさない造語も許される。俳人の言う詩や詩情は詩人の目でみるとそれは俳味とか俳性とか言えば済むことのように思える。
