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スレッドNo.2530

秋霖の蝶は葉陰にさかしまに

館長さんとは永瀬清子の生家を保存している館長さんのことでしょうか。お吟さんがりんさんと奇跡の出会いをしたように、誰とも話したことのない敬愛する詩人のゆかりの人にわたくしの思いが届くとは・・・。長生きも悪くはない。

そう言えば、ずいぶん昔の話になるが敬愛するイタリア文学者須賀敦子のエッセイを連載していたオリベッティ社の「Spazio」(空間)という文化誌が廃刊になると知り、それはイタリアと日本の文化交流に対する無知蒙昧のなせる業だとオリベッティの知り合いに抗議のメールを送ったら、彼が編集部を飛び越して社長にわたくしの文章を持参して、こういう愛読者がいると直訴したらなんと社長が廃刊を中止してくれたので、編集人で須賀敦子の伴走者だった敏(びん)さんこと鈴木敏恵さんがお礼をしたいと青山のイタリアレストランに招待してくれたことがありました。その後敏さんとは文通した仲で、須賀敦子が少女時代感銘を受けたアン・モロー・リンドバーグの『North to the Orient』(1935)をわたくしが渡米した時に買って来て須賀さんが感銘を受けた部分を翻訳して送ったりしているうちに、あなたの文章はこくがあるから須賀さんの連載の後を書いてみないと誘われたことがありました。とんでもない畏れ多いと辞退しましたが、娘が学校の推薦する東大ではなく須賀敦子が教鞭をとっていた四谷の大学(名前忘れたがカソリック系の大学)に入ってくれたので嬉しかったのを覚えています。

澤好摩さんが「ににん」の岩淵喜代子論を読んで「これだけの文章が書けるのにどうしてもっと大きな場所で書かないんだ」と言ってきたときも、頼まれたから書いただけで趣味を生活にする気はないと答えましたが、子どもの時から「よく隠れて生きた者ほどよく生きた者はいない」(オウィディウス『悲しみの歌・黒海からの手紙 』)を座右の銘にしている(デカルトもそうだったらしい)ので、選挙カーの声を聞いて父が冗談で「俺も立候補するか」と言った時に泣き喚いてすがって止めた記憶が未だにあるので(わたくしの生涯で産声以外に泣いた記憶はこれしかない。母も泣いたことがないと言っていた)、よほど目立つのが嫌いだったと見えるが、それを聞くと誰もがウッソーと「マシンガンのようにしゃべくるのに」と驚くのはどういうわけだ。現にわたくしには友はひとりもいないのに。ハテ。

思うに、頼まれると断り切れないという性分なのでしょう。娘も、だってパパは出来ちゃうんだもんと言っていた。雑学の帝王と言われたが、コンピュータのヴェンチャーとの仕事でアメリカに出張していた時に、アメリカ人がアメリカの歌の映画の主題歌や童謡の歌詞を聞きに来たことが何度かあってなんで異国の日本人に聞きに来るんだ、俺が美空ひばりの歌の歌詞をアメリカ人に聞くようなもんじゃねえかと思ったが、どうもあいつに聞けば「それはね」と教えてくれると噂になって、ほんとかと聞きに来ていたらしい。日本ではアメリカの音楽や映画が広く歌われ聴かれているのを知らないので聞きに来て驚くのは、確かにアメリカ人が北島三郎の「与作」や都はるみの「あんこ椿は恋の花」を小節を利かせて歌えば日本人が驚くようなものか、ということになるが、まあ、珍しいとは思われるかも・・・。ジャズ・アニマルとかクレイジー・キャッツとか呼ぶ奴もいたからねえ。

写真は国立博物館正面の階段。わたくしは背を毬のようにして二段飛びで二階まで一気に上って行けた。丁度二段飛びで上るといい高さなのである。

引用して返信編集・削除(編集済: 2024年10月29日 00:13)

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