春昼や螺子のひとつが見当たらぬ
今日は海を捨てて十二年目の春。父と飼い犬のちいは不幸中の幸いで津波の前に亡くなった。母は阿字ヶ浦の高台のデイケアにいたので阿字ヶ浦港の老舗の旅館や魚市場は波に飲まれたが難を逃れた。わたくしは出稼ぎで東京に居たので助かった。東京のパソコンは繋がっていたので本震のあとの最後が那珂湊の常陸沖だったので実家は無事には済まないとわかっていたので母の安否が何よりも優先されたが小学校の後輩がデイケアに居たので幸い携帯がつながり母の無事は確認されたが、那珂湊の家は立入禁止区に指定されているので母をどうするかで勝田の親戚の家へ避難させ、わたくしが道路状況を確認したうえで明日の夜にでも迎えにゆくことを伝言した。電話は不通で携帯のみ繋がったが、被災時は防災のための回線が優先されるため一般回線は繋がらなくなるため、結局それ一回で携帯も繋がらなくなったので、妹たちにはメールで母の無事を伝えた。わたくしはコンピュータの災害復旧(Disaster recovery)のスペシャリストだったので、わたくしの構築したバックアップセンターは阪神大震災の時も無事稼動し続けたから大メーカーといえども設計者がわたくしだと知ると皆協力的だったので、極限状況には強い。そのためには現地の状況把握が一番大事なので迅速で的確な判断を現場と司令塔が情報共有をすることが優先されるのにパニクって右往左往のていたらくで、日本の危機的状況時の支離滅裂さはひど過ぎる。
あやまちはくりかへします秋の暮 三橋敏雄
