振返って・・・こんな投稿もしたのだなあ
✱舞・・・歌舞伎役者という誇り✱ #投稿日2016.2.12
皆様にも知っていただきたいので、少し書きますね。
時代劇スターでありながら、50代過ぎても女形でも立役でも線の綺麗な踊りができる。橋蔵さまはずっと芸に精進なさっていたことがわかります。
相反した性格の橋蔵様と藤間紫さんは舞台をやってもお互いにいい感じを出していました。舞踊でも立役の橋蔵さまは紫さんと踊るととてもいい雰囲気がある。お二人は相性がよかったのですね。
橋蔵さまは6歳で永代橋にいた藤間勘十郎さんに手ほどきを受けるようになり、長く勘十郎家に寄宿してたようで、紫さんとは「お姐ちゃん」「富成ちゃん」と呼び合うほど仲良かったようです。芸の修業はマンツーマンですから、生易しいことでは会得できませんね。
💻あるところにこのように書かれていました。
「橋蔵さまは藤間宗家に何とはなしに身を寄せている間に、芸の慈養分を吸収していったと考えてよい。六代目があるとき「稽古をつけてやろう」という気をおこすのは、それだけ芸の芽が育っていたことになる。その芽を勘十郎の近くにいていつの間にかふくらませていたのだ。」
橋蔵さまは30年5月に勘之丞の舞踊名を許されます。その時勘十郎さんとお二人で撮った写真がありますよ。
橋蔵さまはご自分でもよく言われていましたが、10年ごとに転機が来るのだと。
30年に映画界に入り、テレビに行ったのが41年。歌舞伎役者としての最後の舞台は31年東横ホール、歌舞伎座の公演が始まったのが41年。
銭形平次をやりながら大川橋蔵特別公演の舞台を打つようになり、藤間会にも初めてでたのがこの年です。
💻 このようなことも書かれていました。
「旧知の紫と共演することになったのは、その後まもなくのことだった。(43年の歌舞伎座からですね)
歌舞伎界から去って10年、大衆劇のスターとして”故郷に錦”を飾ったとき、帰ってきたのは藤間宗家のところだった。
舞踊・・少年時代に舞踊家になろうとまで考えた橋蔵は、大衆劇の公演に必ず舞踊を一幕加えている。養父六代目菊五郎の当たり役だった「鏡獅子」「紅葉狩」「船弁慶」「娘道成寺」「藤娘」・・・等々
枚挙にいとまのないくらいだ。当然、稽古に通う機会も多い。
紫を相手役にしてじっくりとしたお芝居を・・・というケースはこうして自然に生まれた。
📺 2001年だったかしら、紫さんがNHKの番組で橋蔵さまを偲んでの番組でこんなことを言っていたような。(この番組で舞踊映像が流れました)
「役者と舞踊家を両立させたかったよう。お稽古をきちんとしていらした。」
「歌舞伎俳優という誇りは最後まで押し通したかったらしい。だから舞踊も歌舞伎でやるような舞踊を苦しくてもそれに挑戦する。」
「女役をやるとサラッとしているが、男役をやると凄く色っぽい。」
「足がすごくきれい。女形として背があのくらいあると、下半身が何となく締まらなくなるのだが、橋蔵さんはそれが無い、藤娘やっても何をやっても身体の線が本当に綺麗。」
📌 橋蔵さまの言葉・・・「自分個人の踊りを大切にしていきたい。」
👘 焼き付いている貴方の舞いと集めた舞いの写真を紐解きながら、舞踊家として年を重ねていっていた橋蔵さまに思いを馳せてます。