振返って・・・こんな投稿もしたのだなあ
✱ 第一回東映歌舞伎は・・・✱ #投稿日2017.2.23
東映歌舞伎を生で観たかった。
橋蔵さまの、その後の「大川橋蔵特別公演」の東京公演はある程度見ていますが、「東映歌舞伎」時代は、田舎の中学生~高校生で受験時代ですから、東京へお芝居を見に行くなんて滅相もないこと。
ただ、いつごろか忘れてしまいましたが、ある時期、東映歌舞伎をテレビで舞台中継を録画したものを放送していたので、見ていた記憶があるのです。
銀幕のスターの生の芝居が観られるのですからすごかったでしょう。
1962年(昭和37年)8月2日初日、第一回東映歌舞伎が幕を開けました。
7月20日から稽古入り、本読み、衣装合わせ等、7月30日から明治座での通し稽古、そして8月2日舞台の幕は開きました。スケジュールを合わせてのことですから大変でしたでしょう。
右太衛門さん、千恵蔵さん、大友柳太朗さん、東千代之介さん、大川橋蔵さまと花形スターを軸に、出演者総勢160人、明治座の楽屋には入りきれず、近くの旅館を借り切って女優陣はそちらから明治座へ。(なぜか錦之助さんは絶対でなかったのですよね、あんなものに出られるか、と言っていたという噂も飛んでいたようですが、撮影で時間が取れなかったのかもしれませんが)。
明治座としてはもったいなかったのですが、1等席60席をつぶしてオーケストラボックスをつくり、生の音楽を使って迫力を出したそうです。
昼の部・・幕開けは「勢揃い清水港」次は「旗本退屈男」と舞台は進んでいきます。
舞台では主水之介をやっている時の橋蔵さまの楽屋はどんな感じだったのでしょう。
昼、夜3回の出演とご挨拶もある橋蔵さま。
ファンから送られた贈り物の山また山、3本の出演で台詞覚えも大変、衣装小道具と打ち合わせも慎重で、さすがの橋蔵さまもちょっと神経質そうになっていて、端麗な顔がよけい青く冴えて美しくみえたそうです。
そんな橋蔵さま、「30日、31日と2日間ぶっ通しの稽古だったのですが、1日の日は一日休みが取れたので披露も取れて元気になったんですよ」とにっこりする橋蔵さまでした。
オーケストラの音が大きくなり拍手の嵐のなか「旗本退屈男」の幕が下りようとしています。
さて、次は川口松太郎さん脚本の「「濡れつばめ」・・橋蔵さまの出番です。
浜町生まれで浜町育ちの橋蔵さまは、同じ浜町明治座での公演に意欲を燃やしていたそうです。
この日のために、7月中旬には上京して、気持ちのトレーニングをしてきたということです。橋蔵さまの心意気が分かります。
夜の部・・「丹下左膳」の次は「いれずみ判官」「花の折鶴笠」
いれずみ判官と花の折鶴笠と橋蔵さま続けてのお芝居になります。
「花の折鶴笠」は、長谷川一夫さんで2回も映画化された名作を舞台劇にしました。これが好評でその後映画化されましたので、内容はお分かりですね。幻想場面の舞踊は違いますね。舞台では若衆姿で、映画は少し大人っぽくでした。
こうして「東映歌舞伎」第一回の旗揚げ公演の初日13時間半は無事終了。
この時の座席券の値段は、歌舞伎座での十一代目市川団十郎襲名興行の歌舞伎界最大の行事の時よりも高い千八百円(当時の金額)でした。
それでも大入り満員だったのですから、銀幕のスターはすごいものでした。大成功でした。
そして東映歌舞伎は1967年(昭和42年)まででしたかしら、橋蔵さまは7回目と9回目は出演しなくなりました。時代劇が廃れてきたわけです。
この東映歌舞伎の催しでの橋蔵さまの観客動員する力を見ていて、テレビ移行と同時に、橋蔵さまの「大川橋蔵特別公演」をという話がスムーズにいった一つかも??しれません。
橋蔵さまの第二の転機は、私生活いろいろありましたが、順風満帆でした。
この時代、東京にいたなら、大人だったら、よかったのになぁ。
これだけはどうにもならなかったわね。
画像は昼の部
花の折鶴笠の苫の半太郎玉子を盗むところの橋蔵さま、幻想場面の舞踊での橋蔵さま、舞台終了後ご挨拶する橋蔵さまの画像から。
(画像の上に👆が出るものはクリックすると違う画面でも見ることが出来、拡大されている画像もあります)